孫子を読む(第一 ~ 第八)

/東洋の思想

第一 計篇

そんいわく、へいくにだいなり。せい存亡そんぼうみちさっせざるからざるなり。ゆえこれはかるに五事ごじもってし、これくらぶるにけいもってして、じょうもとむ。いちいわみちいわてんさんいわいわしょういわほうなり。

孫子は言った。軍事は国家にとって重大な問題である。それは人の死生を左右し、国の存亡に関わるからである。だから、十分に考察しなければならない。軍事は五つの要素で計画を立て比較を行う。その五つは、第一に道、第二に天、第三に地、第四に将、第五に法である。

みちとはたみをしてかみおなじくせしむるなり。ゆえもっこれく、もっこれくして、あやうきをおそれざるなり。てんとは、陰陽いんよう寒暑かんしょせいなり。とは遠近えんきんけんこうきょうせいなり。しょうとは、しんじんゆうげんなり。ほうとは、きょくせい官道かんどう主用しゅようなり。およしゃしょうかざるはし。これものち、らざるものたず。

道とは、民衆に君主と心を一つにさせることである。だから民衆は君主と共に生死を共にし、危険をも恐れずに戦うことができる。天とは、陰と陽、寒さと暑さ、季節や時間である。地とは、遠いか近いか、険しいか平坦か、広いか狭いか、死地か生き延びやすい地かの条件を指す。将とは、知恵、信頼、仁愛、勇気、厳格などの将軍の資質である。法とは、組織の編成、官吏の管理、軍需物資などである。この五つの要素について、将軍たる者は知らないではすまされない。これらを知っている者は勝ち、知らない者は勝つことができない。

ゆえこれくらぶるにけいもってして、じょうもとむ。いわく、しゅいずれか有道ゆうどうなる、しょういずれか有能ゆうのうなる、てんいずれかたる、法令ほうれいいずれかおこなわる、へいしゅういずれかつよき、そついずれかならいたる、しょうばついずれかあきらかなる、と。われこれもっしょうる。

だから比較によって実態を探ろうとする。例えば、どちらの主君が道理を弁えているか、どちらの将が有能か、天や地はどちらに有利か、法律や命令はどちらが行き渡っているか、どちらの軍隊に勢いがあるか、どちらの兵士が鍛えられているか、賞罰はどちらが明確かと。私はこのように勝ち負けを判断する。

けいきてこれもちうれば、かならつ。これとどめん。けいかざればこれもちうるも、かならやぶる。これらん。けいとしてもっかるれば、すなわこれせいして、もっそとたすく。せいとはりてけんせいするなり。

もし将軍が私の計画を聞き実行すれば、必ず勝つ。だからその将軍を任用すべきだ。もし私の計画を聞き入れず実行しなければ、必ず敗れる。そのような将軍は排除しなければならない。計画が有利なら、態勢を整え、外部の条件(地形や状況)を活用して支援とすべきだ。勢とは、条件に応じて権限を柔軟に行使することである。

へいどうなり。ゆえのうなるもこれのうしめし、ようなるもこれようしめし、ちかくともこれとおきをしめし、とおくともこれちかきをしめし、にしてこれさそい、らんにしてこれり、じつにしてこれそなえ、きょうにしてこれけ、にしてこれみだし、にしてこれおごらせ、いつにしてこれろうし、しんにしてこれはなす。無備むびめ、不意ふいづ。へいちにして、さきにはつたからざるなり。

軍事とは、基本的に欺く道である。だから、できることであっても、できないように見せ、使っている兵力でも、使っていないように見せ、近くにいる場合でも、遠くにいるかのように見せ、遠くにいる場合でも、近くにいるように見せる。利益をちらつかせて敵を誘い出し、敵が混乱している時を狙って攻め取り、敵が備えを固めている時にはこれに備え、敵が強い時はこれを避け、敵が怒っている時は落ち着かせ、敵が冷静ならば驕らせ、敵が休養していれば疲れさせ、敵が結束していれば離間させる。敵が備えていない所を攻め、予想していない所に現れる。これが兵法における勝利の道である。だから事前に詳しく伝えることができないのである。

いまたたかわずしてびょうさんしてものは、さんることおおければなり。いまたたかわずしてびょうさんしてたざるものは、さんることすくなければなり。さんおおきはち、さんすくなきはたず。しかるをいわんやさんきにいてをや。われこれもっこれれば、しょうあらわる。

戦う前に廟(びょう)で作戦を立てて勝つ者は、その作戦が上手くいっているからだ。反対に、戦う前に廟で作戦を立てても勝てない者は、その作戦が上手くいっていないからである。作戦が十分ならば勝ち、作戦が不十分であれば勝てない。ましてや、作戦もない状態では、勝てるはずがない。私は、これにより予め勝敗が分かるのだ。

第二 作戦

そんいわく、およへいもちうるのほうは、しゃ せん革車かくしゃせんじょう帯甲たいこうじゅうまんせんにしてりょうおくれば、すなわ内外ないがい賓客ひんかくよう膠漆こうしつざい車甲しゃこうほう千金せんきんついやす。しかのちじゅうまんがる。

孫子は言った。軍を動かすための基本としては、速い戦車千台、装甲がある戦車千台、鎧の兵士十万人、千里の遠方まで食糧を送るための費用、客人の接待の費用、車両の修理に使う資材、戦車や鎧の補修費などが必要になり、一日に千金が必要になる。こうして、十万の大軍を動かすことができるのだ。

たたかいをもちうるや、つもひさしければ、すなわへいにぶらしえいくじく。しろむれば、すなわちからくっす。ひさしくさらせば、すなわ国用こくようらず。へいにぶらせえいくじき、ちからくっくさば、すなわ諸侯しょこうへいじょうじておこる。

戦争を長引けば兵士は疲れ、武器は破損する。城攻めが続けば、兵力も消耗する。軍隊を長い間遠征させると、国家の財政は底をつく。兵を疲弊させ、武器を破損させ、兵力を消耗し、財貨を枯渇させれば、その隙を突いて周りの諸侯たちは攻め込んでくるだろう。

しゃりといえども、のちくするあたわず。ゆえへい拙速せっそくくも、いまこうひさしきをざるなり。へいひさしくしてくにあるものは、いまこれらざるなり。ゆえことごと用兵ようへいがいらざるものは、すなわことごと用兵ようへいをもあたわざるなり。

賢い者でも、長引いた戦争の後は国を立て直すことはできない。だから、速く終わる戦争に下手な戦争はあっても、長く続く戦争に上手い戦争はない。戦争が長引いて国の利益になった例は未だかつてない。だから、戦争によって生じる害悪を知らない者は、戦争によって得られる利益を正しく知ることはできない。

へいもちうるものは、えきふたたびはせきせず、りょうたびはさいせず。ようくにり、りょうてきる。ゆえぐんしょくきなり。くにひんなるは、とおおくればなり。とおおくれば、ひゃくせいまずし。ちかものばいす。ばいすれば、すなわひゃくせいざいく。ざいくれば、すなわきゅうえききゅうなり。ちからくっざい中原ちゅうげんき、うちいえむなし。ひゃくせいじゅうしちる。

上手く兵を使う者は、兵士を再び徴兵しないし、食糧を三度も運ばせることはない。兵を国から調達し、食糧は敵から得る。ゆえに軍の食料は十分であるべきだ。国の軍が貧しいのは、遠くから食糧を運ぶからだ。遠くから食糧を運ぶと、百姓は貧しくなる。軍に近い者たちは物資を高く売り、物資が高ければ、百姓たちの財産は尽きる。財産が尽きると、戦争の準備が難しくなる。力が尽き、財政も尽き、国の財政も空になる。百姓の生活費は、その七割が消えてしまう。

こうしゃ罷馬ひばかっちゅう矢弩しどげきじゅんへい丘牛きゅうぎゅう大車たいしゃじゅうろくる。ゆえしょうつとめててきむ。てきいっしょうむは、じっしょうあたり、mojikyo_font_031007(き)かんいっせきは、じっせきあたる。

国の経費としては、破れた車両や使い古された馬、古びた甲冑や矢や弓、槍や盾、防御用の櫓(やぐら)、牛車や車両などが必要だが、その六割が無駄になる。したがって、賢い将軍は、敵の物資を食うことに努める。敵の一鍾(鍾は食料の単位)を食べることは、自軍の二十鍾に相当し、敵の一石(石は食料の単位)を消耗させることは、自軍の二十石に相当する。

ゆえてきころものなり。てきものなり。ゆえ車戦しゃせんくるま十乗じゅうじょうじょうれば、さきたるものしょうし、しかしてせいあらため、くるままじえてこれらしめ、そつくしてこれやしなう。これてきちてきょうすとう。

ゆえに敵を殺すのは殺意であるが、敵の物資を奪うのは利益のためである。戦車を十台以上奪った場合、最初に奪った者を報奨し、旗を新たにし、戦車を混ぜ合わせて自軍に加え、兵士は優れた者を選んで養うことが必要である。これが、敵に勝利して力を強化する方法だと言える。

ゆえへいつことをたっとびて、ひさしきをたっとばず。ゆえへいるのしょうは、生民せいみんめいこっあんしゅなり。

だから、兵は勝利を重んじ、長期間の戦争を行ってはならない。兵法を知っている将軍は、民を守る責任があり、国の安定を保ち、危機を避けることが求められる。

第三 謀攻篇 

そんいわく、およへいもちうるのほうは、くにまっとうするをじょうし、くにやぶるはこれぐ。ぐんまっとうするをじょうし、ぐんやぶるはこれぐ。りょまっとうするをじょうし、りょやぶるはこれぐ。そつまっとうするをじょうし、そつやぶるはこれぐ。まっとうするをじょうし、やぶるはこれぐ。ゆえひゃくせん百勝ひゃくしょうは、ぜんぜんなるものあらざるなり。たたかわずしてひとへいくっするは、ぜんぜんなるものなり。

孫子は言った。戦の原則は、自国に損失を出さないが上策であり、敵の国を打ち破ることはその次策である。自軍に損失を出さないことが上策であり、敵の軍を破ることはその次策である。そのため、百戦百勝というのは最上ではなく、戦わずに敵兵を屈服させることが最上である。

ゆえ上兵じょうへいぼうつ。つぎこうつ。つぎへいつ。しろむ。しろむるのほうは、むをざるがためなり。轒轀ふんうんおさめ、かいそなうること、三月さんげつしてのちる。距闉きょいんまた三月さんげつにしてのちむ。しょう忿いきどおりにえずして、これ蟻附ぎふせしめ、ころすこと三分さんぶんいちにして、しろけざるは、こうわざわいなり。

だから最上の戦は敵の謀略を破ること、その次は敵の同盟関係を破ること、その次は敵の軍を討つこと、最悪は城を攻めることである。城攻めは、やむを得ないときだけに行うべきである。城攻めのための器械を準備するには三ヶ月も掛かり、土塁を作るにはさらに三ヶ月掛かる。将軍が怒りを我慢できずに攻撃を始めると、全軍の三分の一の犠牲を払っても、城を落とせない事態になる。これが城を攻めることの害である。

ゆえへいもちうるものは、ひとへいくっするも、たたかうにあらざるなり。ひとしろくも、むるにあらざるなり。ひとくにやぶるも、ひさしきにあらざるなり。かならまったきをもってんあらそう。ゆえへいつかれずして、まっとうすし。謀攻ぼうこうほうなり。

だから優れた将軍は、敵兵を屈服させてもそれと戦闘したのではなく、敵の城を落としても城を攻めたのではなく、敵国を滅ぼしても長期戦によるものではない。いつも自国を万全な状態にして天下の覇権を争う。だから、軍は疲弊することがなく、戦果を得ることができる。これが謀略で攻めることの原則である。

ゆえへいもちうるのほうは、じゅうなればすなわこれかこみ、なればすなわこれめ、ばいなればすなわこれかち、てきすればすなわこれたたかい、すくなければすなわこれのがれ、かざればすなわこれく。ゆえしょうてきけんは、大敵たいてきとりこなり。

だから戦の原則は、自軍が敵軍の十倍であれば包囲し、五倍であれば攻撃し、二倍であれば敵を分断させ、同等であれば奮戦し、自軍が少なければ退却し、兵力が及ばなければ隠れるべきである。つまり、少数の軍なのに強気であれば、大軍の捕虜になるだけである。

しょうくになり。しゅうなればすなわくにかならつよし。げきあればすなわくにかならよわし。ゆえきみぐんうれうる所以ゆえんものにはさんあり。ぐんもっすすからざるをらずして、これすすめとい、ぐんもっ退しりぞからざるをらずして、これ退しりぞけとう。これぐんすとう。三軍さんぐんことらずして、三軍さんぐんせいおなじくすれば、すなわぐんまどう。三軍さんぐんけんらずして三軍さんぐんにんおなじくすれば、すなわぐんうたがう。三軍さんぐんすでまどうたがわば、すなわ諸侯しょこうなんいたる。これぐんみだしてかちくとう。

将軍は国の補佐である。将軍と君主の関係が良ければ国は強くなり、隙間があれば国は弱くなる。君主が軍事について心配しなければならないのは三つである。進軍してはいけないときに進軍を命令し、退却してはいけないときに退却を命令すると、軍の邪魔になる。軍事を知らないのに軍事の行政を行うと、兵士を迷わせる。軍の戦術が分からないのに軍の指揮をとると、兵士は疑いをもつ。軍が迷って疑いをもてば、敵に攻め込まれ、勝利も遠ざかる。

ゆえかちるにり。もったたかきと、もったたかからざるとをものつ。しゅうようものつ。しょうよくおなじくするものつ。もっ不虞ふぐものつ。しょうのうにしてきみぎょせざるものつ。こくしゃかちるのみちなり。ゆえいわく、かれおのれれば、ひゃくせんあやうからず。かれらずしておのれれば、いっしょういっす。かれらずおのれらざれば、たたかごとかならあやうし。

勝利を知るためには五つある。戦うときと、戦ってはいけないときを弁えれば勝ち、大軍と少数の軍の用い方を知っていれば勝ち、上と下が心を合わせていれば勝ち、よく準備をしていればそうでない敵に勝ち、将軍が有能で君主が干渉しなければ勝つ。この五つのことが勝利ための方法である。従って、敵を知り自軍を知れば百戦しても負けることはなく、敵を知らないで自軍を知れば勝ったり負けたりし、敵を知らず自軍も知らなければ戦うたびに危険な目に会う。

第四 形篇

そんいわく、むかしたたかものは、からざるをして、もってききをつ。からざるはおのれるも、きはてきり。ゆえたたかものは、からざるをすも、てきをしてからしむることあたわず。ゆえいわく、かちくして、からず、と。

孫子は言った。昔の戦の巧みな者は、まず誰も勝つことができない形勢に整え、誰もが勝てるような形勢になるのを待った。誰も勝つことができない形勢とは自軍のことで、誰でも勝つことができる形勢とは敵軍のことである。戦が巧みな者でも、自軍を誰も勝つことができないようにできても、敵軍を誰でも勝つことができるようにはできなかった。勝てると思っても、必ず成し遂げられる訳ではなかったのである。

からざるはまもるなり。きはむるなり。まもるはすなわらざればなり、むるはすなわあまればなり。まもものは、きゅうしたかくれ、むるものきゅうてんうえうごく。ゆえみずかたもちてかちまっとうするなり。

誰も勝てない形勢とは守備のことであり、誰でも勝てる形勢とは攻撃のことである。守備をするのは兵力が不足しているからで、攻撃するのは兵力に余裕があるからである。守備の巧みな者は地の奥に隠れ、攻撃の巧みな者は天の上から攻めてくる。だから、自軍を保ちながら、勝利を得ることができる。

かちること衆人しゅうじんところぎざるは、ぜんぜんなるものあらざるなり。たたかちててんしとうも、ぜんぜんなるものあらざるなり。ゆえしゅうごうぐるはりょくさず。日月じつげつるは明目めいもくさず。雷霆らいていくはそうさず。いにしえ所謂いわゆるたたかものは、やすきにものなり。

勝利を読み取るのに一般の人にも分かるようでは、最上に優れた者とは言えない。戦に勝って天下の人々が誉める程度では、最上に優れた者とは言えない。羽毛を持ち上げても力持ちではなく、太陽や月が見えても目が良くはなく、雷が聞こえても耳が良いわけでない。昔の戦の巧みな者は、勝ち易い戦を勝った者である。

ゆえたたかものつや、めいく、勇功ゆうこうし。ゆえたたかちてたがわず。たがわざるものは、ところかならつ。すでやぶるるものてばなり。ゆえたたかものは、はいちて、てきはいうしなわざるなり。ゆえしょうへいちて、しかのちたたかいをもとめ、敗兵はいへいたたかいて、しかのちちをもとむ。

だから戦が巧みな者が勝った場合は、智謀が優れているとも、武勇が優れているとも言われない。彼が戦をすれば必ず勝つ。必ず勝つということは、すでに負けている敵に勝つからである。戦の巧みな者は、負けない状態を作って、敵が負ける機会を逃さない。勝つ軍はまず勝利を得てから戦を求めるが、負ける軍は戦を始めてから勝利を求める。

へいもちうるものは、みちおさめてほうたもつ。ゆえしょうはいまつりごとす。兵法へいほうは、いちいわく、たくいわく、りょうさんいわく、すういわく、しょういわく、しょうたくしょうじ、たくりょうしょうじ、りょうすうしょうじ、すうしょうしょうじ、しょうしょうしょうず。ゆえ勝兵しょうへいいつもっしゅはかるがごとく、敗兵はいへいしゅもっいつはかるがごとし。しょうしゃたみたたかわしむるや、積水せきすい千仞せんじん谿たにけっするがごときは、かたちなり。

戦の巧みな者は、政を行い法を守る。だから勝敗を決することができる。兵法では、一つに物を測り、二つに量を量り、三つに数を数え、四つに比べ、五つに勝敗を考えることである。戦場を測り、それにより投入する物量が決まり、そして兵数が決まり、敵と味方の兵力を比べ、勝敗が決まる。勝つ軍は常に優勢であるが、負ける軍は常に劣勢である。勝つ軍の兵を戦わせるのは、水を谷底に流し込むようなものである。

第五 勢篇 

そんいわく、およしゅうおさむることおさむるがごとくなるは、分数ぶんすうれなり。しゅうたたかわしむることたたかわしむるがごとくなるは、形名けいめいれなり。三軍さんぐんしゅうかならてきけてはいからしむるきは、せいれなり。へいくわうるところもったまごとうずるがごとくなるは、虚実きょじつれなり。

孫子は言った。大勢の軍を統制していても、少数の軍を統制しているように上手くいくのは、軍の編成のおかげである。大勢の兵士を戦闘させていても、少数の兵士を戦闘させているように上手くいくのは、指揮力のおかげである。大軍が敵に上手く対応して負けることがないのは、正攻法と奇策を使い分けているからである。戦を行えば、まるで石を卵にぶつけるように簡単に撃破できるのは、実をもって虚を突くからである。

およたたかいは、せいもっがっし、もっつ。ゆえいだものは、きわまりきことてんごとく、きざることこうごとし。わりてはじまるは、日月じつげつれなり。してしょうずるは、しいれなり。

戦とは、正攻法をもって敵と向き合い、奇策をもって勝つのである。故に、奇策を上手く使う者の軍は、天地のように定まることなく、大河のように尽きることがない。終わってもまた始まるのは日夜のようであり、死んでもまた生まれるのは四季のようである。

こえぎざるも、せいへんげてからざるなり。いろぎざるも、しょくへんげてからざるなり。あじぎざるも、五味ごみへんげてからざるなり。戦勢せんせいせいぎざるも、せいへんげてきわからざるなり。せいあいしょうずることは、じゅんかんはしきがごとし。たれこれきわめんや。

音には五つの音階しかないが、その組み合わせは多様で聞き分けることはできない。色には五つの種類しかないが、その組み合わせは多様で見分けることはできない。味には五つの種類しかないが、その組み合わせは多様で味わい尽くすことはできない。戦法には正攻法と奇策しかないが、その組み合わせは無数で窮めることはできない。正攻法と奇策が相生じることは、循環して終わりがないようなものである。誰がこれを窮めることができようか。

激水げきすいはやくして、いしただよわすにいたものは、せいなり。ちょうはやくして、せついたものは、せつなり。ゆえたたかものは、せいけんにして、せつたんなり。せいくがごとく、せつはっするがごとし。

激しい水の流れが、石を押し流していくのが勢いである。猛禽が獲物を打ち砕いてしまうのが節目である。戦が巧みな者は、その勢いは激しく、その節目は短くなる。勢いは弓を引くときようであり、節目は引き金を引くときのようである。

紛紛ふんぷん紜紜うんうんとして、たたかみだれてみだからず。渾渾こんこん沌沌とんとんとして、かたちまるくしてやぶからず。らんしょうじ、きょうゆうしょうじ、じゃくきょうしょうず。らんすうなり。ゆうきょうせいなり。彊弱きょうじゃくかたちなり。ゆえてきうごかすものは、これかたちすればてきかならこれしたがい、これあたうれば、てきかならこれる。もっこれうごかし、そつもっこれつ。

両軍が激しい乱戦に突入しても、軍の秩序が乱されることがなく、延々と混戦が続いても、軍の陣が崩れることはない。混乱は秩序の中から生じ、臆病は勇敢さの中から生じ、柔弱さは剛強さの中から生まれる。秩序か混乱かは軍の編成で決まり、勇敢か臆病かは軍の勢いで決まり、剛強か柔弱かは軍の態勢によって決まる。敵を上手く動かす者は、策を示せば敵は乗せられ、物を出せば敵は取りに来る。敵に利益を示して誘い出し、裏を突いてそれを待つ。

ゆえたたかものは、これせいもとめて、ひともとめず。ゆえひとえらびてせいにんず。せいにんずるものは、ひとたたかわしむるや、木石ぼくせきてんずるがごとし。木石ぼくせきせいは、あんなればすなわせいに、なればすなわうごき、ほうなればすなわとどまり、えんなればすなわく。ゆえひとたたかわしむるのいきおい、円石えんせき千仞せんじんやまてんずるがごときは、せいなり。

戦の巧みな者は、戦の勝利を勢いに求めて、兵士を責めることがない。だから、兵士を選んだ後は、勢いに任せる。そのような指揮官が兵士を戦わせる様は、木や石を転がすようなものである。木や石の性質は、地面が安定していれば静かであるが、不安定であれば動き、形が四角であれば止まり、丸ければ転がっていく。戦が巧みな者が兵士を戦わせると、丸い石を高い山から転がり落とすような勢いとなる。

第六 虚実篇

そんいわく、およさきせんりててきものいっし、おくれてせんりてたたかいにおもむものろうす。ゆえたたかものは、ひといたしてひといたされず。敵人てきじんをしてみずかいたらしむるは、これすればなり。敵人てきじんをしていたるをざらしむるは、これがいすればなり。ゆえてきいっすればこれろうし、けばこれえしめ、やすんずればこれうごかす。

孫子は言った。先に戦場に着いて敵を待つのは楽であるが、後から戦場に着いて戦うのは困難である。戦の巧みな者は、敵を思い通りに動かすが、敵の思い通りに動かされることはない。敵が自分から出てくるようにできるのは、敵の利益になることを示しているからであり、敵が出てこれないようにできるのは、敵の損害になることを示しているからだ。だから、敵が休養をとれていれば疲労させ、充足していれば欠乏させ、留まっていれば誘い出すことができる。

おもむかざるところで、おもわざるところおもむく。せんきてろうせざるは、じんけばなり。めてかならるは、まもらざるところむればなり。まもりてかならかたきは、めざるところまもればなり。ゆえむるものには、てきまもところらず。まもものは、てきむるところらず。なるかななるかな、けいいたる。しんなるかなしんなるかな、せいいたる。ゆえてきめいす。

敵が出てくるような所に出向き、敵の思いもしない所に赴き、長い道程を進んでも疲れないのは、敵のいない道を行軍するからである。攻めて必ず奪い取れるのは、敵が守れない所を攻めるからであり、守って必ず破られないのは、敵が攻められない所を守るからである。そのため、攻撃の巧みな者は、敵はどこを守ったらよいか分からず、守備が巧みな者は、敵はどこを攻めたらよいか分からない。微細にして形はなく、神妙にして音もなく、敵の命運を握ることができる。

すすみてふせからざるは、きょけばなり。退しりぞきてからざるは、すみやかにしておよからざればなり。ゆえわれたたかわんとほっすれば、てきるいたかくしこうふかくすといえども、われたたかわざるをざるは、かならすくところむればなり。われたたかいをほっせざれば、かくしてこれまもるも、てきわれたたかうをざるは、ところそむけばなり。

進軍しても敵が防げないのは、敵の隙を突いているからであり、後退しても敵が追撃しないのは、速くて敵が追いつけないからである。こちらが戦いたいときは、敵が壁を高くし、堀を深くしていても、戦わざる得なくなるのは、敵が助けを求めるところを攻めるからである。こちらが戦いたくないときには、陣地を引いて守るだけで、敵は戦うことができない。これは、敵の進路とは逆に行動しているからである。

ゆえひとかたちせしめてわれかたちなければ、すなわわれあつまりててきは分かる。われあつまりていつり、てきかれてじゅうらば、じゅうもっいつむるなり。すなわわれおおくしててきすくなし。しゅうもってば、すなわわれともたたかところものやくなり。ともたたかところからず。からざれば、すなわてきそなうるところものおおし。てきそなうるところものおおければ、すなわともたたかところものすくなし。ゆえまえそなうればすなわうしすくなく、うしろにそなうればすなわまえすくなく、ひだりそなうればすなわみぎすくなく、みぎそなうればすなわひだりすくなし。そなえざるところければ、すなわすくなからざるところし。

だから、敵に布陣を取らせて、自軍の布陣を隠せば、自軍は敵に集中することができるが、敵は分散してしまう。自軍は集中して一つとなり、敵軍が十に分散してしまえば、自軍の十で敵の一を攻めることになる。つまり、自軍は大勢であり、敵は小勢である。大勢で小勢を攻撃できるから、戦う相手は弱小である。こちらが戦う場所や時期が敵に分からなければ、敵が守らなければいけない場所は多くなる。敵が守る場所が多くなれば、敵は小勢になる。だから、前方を備えれば後方は小勢になり、後方を備えれば前方が小勢になる、左を備えれば右が小勢になり、右を備えれば左が小勢になり、全ての場所に備えれば全て場所が小勢になる。

すくなきはひとそなうるものなり。おおきはひとをしておのれそなえしむるものなり。ゆえたたかいのり、たたかいのれば、すなわせんにして会戦かいせんし。たたかいのらず、たたかいのらざれば、すなわひだりみぎすくうことあたわず、みぎひだりすくうことあたわず、まえうしろをすくうことあたわず、うしろはまえすくうことあたわず。しかるをいわんやとおきはすうじゅうちかきはすうなるをや。われもっこれはかるに、越人えつひとへいおおしといえども、なんしょうはいえきあらん。ゆえいわく、かちきなり。てきおおしといえども、たたかうことからしむし。

小勢になるのは相手に備える立場だからで、大勢になるのは相手に備えさせる立場だからである。戦う場所と日時を分かったのなら、長い距離でも進軍して戦うべきである。戦う場所や日時が分からなければ、左軍は右軍を助けることができず、右軍は左軍を助けることができず、前方の軍は後方を助けることができず、後方の軍は前方を助けることができない。数十里の遠い場所でも、数里先の近い場所でも同様である。兵士の数がどんなに多くても勝利には関係ない。敵がいくら大勢でも、戦えないようにすればよいのだ。

ゆえこれはかりて得失とくしつけいり、これおこして動静どうせいり、これあらわしてせいり、これれてゆうそくところる。ゆえへいあらわすのきょくは、けいいたる。けいなれば、すなわ深間しんかんうかがうことあたわず、しゃはかることあたわず。かたちりてかちしゅうくも、しゅうることあたわず。ひとみな所以ゆえんかたちるも、かちせいする所以ゆえんかたちることし。ゆえたたかつやふたたびせずして、かたちきゅうおうず。

そこで、戦の前に敵情を調べて戦いの結果を測り、敵軍を動かしてその行動の規準を知り、敵の態勢を把握して敵軍の死活に関わる場所を知り、敵と小競り合いをして、敵軍の優勢な場所と手薄な場所を知るのである。だから、軍の究極の態勢は無形であることだ。無形であれば、自軍に潜入した間諜も探ることができず、智謀のある者でも見抜くことができない。相手の形勢が分かれば勝利を得ることができるが、一般の人々にはそれが分からない。人々は勝利した時の形勢は分かるが、勝利を決定した原因は分からない。戦いの勝ち方に同じものはなく、敵の形勢に応じて無限に変化するのである。

へいかたちみずかたどる。みずかたちたかきをけてひくきにおもむき、へいかたちじつけてきょつ。みずりてながれをせいし、へいてきりてちをせいす。ゆえへいじょうせいく、みずじょうけいし。てきりてへんしてかちものこれしんう。ゆえぎょう常勝じょうしょうく、しいじょうく、たんちょうり、つきせいり。

軍の形勢は水に似ている。水は高い所を避けて低い所へ流れる。軍の形勢も敵が充実した所を避けて手薄な所を攻撃する。水は地形によって流れを決めるが、軍は敵情によって形勢を決める。だから、軍には一定の形勢というものはなく、水にも一定した形というものがない。敵情に応じて変化して勝つことができる。これが神妙な兵法である。だから、陰陽五行にも常に勝つことはなく、四季は止まることがなく、日の長さには長短があり、月には満ち欠けというものがある。

第七 軍争篇

そんいわく、およへいもちうるのほうは、しょうめいきみよりけ、ぐんがっしゅうあつめ、まじえてとどまるに、軍争ぐんそうよりかたきはし。軍争ぐんそうかたきは、もっちょくし、かんもっす。ゆえみちにして、これさそうにもってし、ひとおくれてはっし、ひとさきんじていたる。ちょくけいものなり。

孫子は言った。戦の原則は、将軍が君主からの命令を受けて、軍を統率し兵を集め、敵と対峙するまでに機先を制そうとする戦ほど難しいものはない。戦の難しさは、曲がった道をまっ直ぐな道に変え、不利を有利に変えるところにある。だから、遠回りを見せかけ、敵を利益でおびき出し、敵より遅れて出発して、敵より先に到着するのである。これが、遠回りを近道にする計略を知る者である。

ゆえ軍争ぐんそうたり、軍争ぐんそうたり。ぐんげてあらそえばすなわおよばず、ぐんててあらそえばすなわちょうてらる。ゆえこうきてはしり、にちらず、みちばいして兼行けんこうし、ひゃくにしてあらそえば、すなわさんしょうぐんとりこにせらる。つよものさきだち、つかるるものおくれ、ほうじゅうにしていちいたる。じゅうにしてあらそえば、すなわじょうしょうぐんたおす。ほうなかいたる。さんじゅうにしてあらそえば、すなわ三分さんぶんいたる。

だから、戦は利益をもたらすが危険ももたらす。全軍で有利な地に取ろうとすれば敵に遅れてしまい、軍の陣形を無視すれば、補給部隊が置き去りにされてしまう。そのため甲冑を外して走り、昼夜も休まず急ぎ、倍の道程を進み、百里先の利益を争えば、三軍の将軍が捕虜にされるだろう。体力のある者が先行し、疲れた兵士が取り残され、十人に一人しか到達できないからである。五十里先の利益を争えば、先行する将軍が倒れ、半分の兵士しか到達できない。三十里先の利益を争えば、三分の二の兵士が到達できる。

ゆえぐんちょうければすなわほろび、糧食りょうしょくければすなわほろび、委積いしければすなわほろぶ。ゆえ諸候しょこうはかりごとらざるものは、あらかじまじわることあたわず。山林さんりんけんたくかたちらざるものは、ぐんることあたわず。きょうどうもちいざるものは、ることあたわず。

そのため、補給部隊がなければ敗北し、食料がなければ敗北し、財貨がなければ敗北する。敵国の策略を知らない者は、事前に同盟を結ぶことができず、山林・険しい土地・沼沢などの地形を知らない者は、軍を進めることはできない。その土地の案内人を使わない者は、地の利を得ることができない。

ゆえへいもっち、もっうごき、分合ぶんごうもっへんものなり。ゆえはやきことかぜごとく、しずかなることはやしごとく、しんりゃくすることごとく、うごかざることやまごとく、がたきこといんごとく、うごくこと雷震らいしんごとく、きょうかすめてしゅうかち、ひろめてかち、けんけてうごく。ちょくけいものつ。軍争ぐんそうほうなり。

戦は謀略によって成り立ち、利益を求めて動き、分散と統合により変化するものである。だから軍は、風のように迅く進み、林のように静かに潜み、火のように激しく攻め、山のように構えて動かず、暗闇のように存在が知れず、雷のように激しく動く。村落を奪うときは軍を分散し、領土を拡げるときは味方に利益を配分し、利害を考えて動く。遠回りを近道に変える計略を知っている者が勝つ。これが、戦の原則である。

軍政ぐんせいいわく、うともあいこえず、ゆえきんつくる。しめすともあいまみえず、ゆえせいつくる、と。きんせいは、ひともくいつにする所以ゆえんなり。ひとすで専一せんいつなれば、すなわ勇者ゆうしゃひとすすむことをず、きょうしゃひと退しりぞくことをず。しゅうもちうるのほうなり。ゆえせん火鼓かこおおく、昼戦ちゅうせんせいおおきは、ひともくうる所以ゆえんなり。

古い兵法書では、「口で言っても聞こえないから、鍾や太鼓を作り、示しても見えないから、旗や幟(のぼり)を作り」とある。鍾や旗は兵士の耳目を統制するためにある。兵士が統制されていれば、勇敢な者でも勝手に進むことはできず、臆病な者でも勝手に退くことはできない。これが大軍を動かす原則である。だから、夜の戦いには篝火(かがりび)や太鼓が多く、昼の戦いには旗や幟が多いのは、兵士の注意を向けさせるためである。

ゆえ三軍さんぐんにはうばく、しょうぐんにはこころうばし。ゆえあさえいひるれのゆえへいもちうるものは、鋭気えいきけて、惰帰だきつ。おさむるものなり。もっらんち、せいもっつ。こころおさむるものなり。ちかきをもっとおきをち、いつもっろうち、ほうもっつ。ちからおさむるものなり。正々せいせいはたむかうることかれ、堂々どうどうじんつことかれ。へんおさむるものなり。

だから、敵軍の士気を奪い取り、敵将の心を奪い取ることができる。朝は気力が鋭く、昼は気力が緩み、夜は気力が尽きてしまう。戦の巧みな者は、敵の気力が鋭い時を避けて、気力が緩んでいる時を撃つが、これは敵兵の気力を知っているからである。統制された状態で雑然とした敵を撃ち、冷静な状態で混乱した敵を討つが、これは敵兵の心理を知っているからである。戦場の近くで遠方からの敵を待ち受け、十分に休養した状態で疲労した敵を待ち受け、十分に補給した状態で欠乏した敵を待ち受ける。旗や幟が整然とした敵とは戦わず、堂々とした陣形の敵は攻めないが、これは敵軍の状態を知っているからである。

第八 九変篇

そんいわく、故にへいもちうるのほうは、こうりょうにはかうかれ、きゅうにするにはむかかれ、いつわぐるにはしたがかれ、鋭卒えいそつにはむるかれ、へいにはらうかれ、帰師きしにはとどむるかれ、囲師いしにはかならき、きゅうこうにはせまかれ。へいもちうるのほうなり。

孫子は言った。ゆえに用兵の原則は、高い丘にいる敵を攻めてはならなず、丘を背に攻めてくる敵を迎え撃ってはならず、偽りの退却を追ってはならず、士気の高い敵を攻めてはならず、囮の敵兵に食い付いてはならず、母国に退却する敵軍を引き止めてはならない。包囲した敵軍には逃げ道を開けておき、窮地の敵軍を追い詰めてはならない。これが戦いの原則である。

およへいもちうるのほうは、しょうめいきみけ、ぐんがっしゅうあつめ、圮地ひちにはやどることく、衢地くちにはまじわりがっし、ぜっにはとどまることく、囲地いちにはすなわはかり、死地しちにはすなわたたかう。みちらざるところり、ぐんたざるところり、しろめざるところり、あらそわざるところり、君命くんめいけざるところり。

戦争の原則は、将軍が君主からの命令を受けて、軍を統率して兵士を集めて、難しい土地には軍を進ませず、重要な要衝に軍を進ませて、険しい地形には軍を留まらせず、敵に囲まれている地では謀略を仕掛け、絶体絶命の死地では懸命に戦うべきだ。道にも通ってはいけない場所があり、敵軍にも撃っていけない場所があり、城にも攻めてはいけない場所があり、土地にも奪ってはいけない場所があり、君主の命令にも従ってはいけない場合がある。

ゆえしょうきゅうへんつうずれば、へいもちうることをる。しょうきゅうへんつうぜざれば、けいるといえども、ることあたわず。へいおさめてきゅうへんじゅつらざれば、五利ごりるといえども、ひとようることあたわず。

だから、九通りの変化(九変)を利用できる将軍は、用兵を知っている者であり、九変を利用できない将軍は、たとえ戦場の地形を知っていても、地の利を得ることができない。軍を率いるのに九通りの変化を知らなければ、五つの対応を知っていても、兵を上手く用いることができない。

ゆえしゃりょは、かならがいまじう。まじえて、つときなり。がいまじえて、うれきなり。ゆえ諸侯しょこうくっするものがいもってし、諸侯しょこうえきするものぎょうもってし、諸侯しょこうはしらすものもってす。ゆえへいもちうるのほうは、きたらざるをたのく、われもっるをたのむなり。めざるをたのく、われからざるところるをたのむなり。

智者が考えるときは必ず利害の両面を考える。利益について考える時は、害についても考えれば戦は上手くいくだろう。害について考える時は、利益についても考えれば不安も解消される。このため、諸外国を屈服させるには害になることを仕向け、諸外国を使うには共同の利益を与え、諸外国を奔走させるには利益を与えて仕向ける。だから戦の原則は、敵が来ないことを当てにするのではなくて、自軍の十分な備えを頼りにすべきである。敵が攻撃しないことを頼りにするのではなくて、自軍に攻撃されない備えがあることを頼りにすべきである。

ゆえしょう五危ごきり。ひっころさるく、必生ひっせいとりことすく、忿速ふんそくあなどく、廉潔れんけつはずかしむく、愛民あいみんわずらわすし。およしゃしょうあやまちなり、へいもちうるのわざわいなり。ぐんくつがえしょうころすは、かなら五危ごきもってす。さっせざるからざるなり。

将軍には五つの危険がある。必死の覚悟である者は殺され、生きる執着のある者は捕虜にされ、短気な者は罠には嵌められ、高潔な者は辱められ、兵士に気を使う者は苦労する。この五つの危険は、将軍の過失であり、戦にとっては害になる。軍が全滅して将軍が殺されるのは、必ずこの五つの危険によるもので、十分に注意しなければならない。

 

孫子を読む(第九~第十三)
紀元前500年頃の中国の軍事思想家である孫武の作とされる兵法書、行軍篇、地形篇、九地篇、火攻篇、用間篇
宗教・思想
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