荘子とは
荘子(そうし)とは、紀元前4世紀頃(戦国時代)の中国の哲学者で、「荘子(そうじ)」の著者とされています。荘子の思想は、老子と合せて老荘思想と呼ばれています。
思想の特徴は、あるがままの無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものです。老子は政治色が濃い姿勢が多々ありますが、荘子は俗世間を離れ、無為の世界に尊ぶ姿勢が強調されています。
荘子のことば
【內篇二】荘周夢に胡蝶と為る[莊周夢爲胡蝶] |
「胡蝶の夢」として知られており、夢の中で蝶(胡蝶)になって飛んでいたが、目が覚めて、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という話です。
蝶と自分は形には違いがあるが、自分であることは変わりない。万物は絶え間なく変化を続けるが、その本質は変わらないと考えます。
【內篇二】万物斉同(ばんぶつせいどう)[萬物齊同] |
人の価値観は善悪・是非・美醜など相対的概念で成り立っていますが、これを超越した道の観点から見れば、万物は等価であるという思想です。その境地に立てば、万物は道の姿の一面にすぎず、対立と差別は消滅し、全てのものは同じであると説きます。
【內篇二】朝三暮四(ちょうさんぼし)[朝三而暮四] |
ある猿回しが猿たちに、「トチの実を朝に三つ、夕方に四つ与える」と話すと猿たちは怒った。今度は「朝に四つ、夕方に三つ与える」と話すと猿たちは喜んだ。
「朝三暮四」でも「朝四暮三」でもトチの実の数は変わらないのに、目先の利益に囚われて、全体を見失ってしまうことを戒めています。
【內篇二】道は通じて一たり[道通為一] |
全ての道はいつか一つになる。人間の目にはそれぞれ相違して見えても、それは一つの道の違う側面にすぎない。
自分に執着すると、自分のものと他人のものとに分かれてしますが、もともとそれらは一つであり、万物は同根であると説きます。
【外篇十七】井蛙(せいあ)大海を知らず[井蛙不可以語於海者] |
「井の中は楽しくてたまらない」と自慢する蛙に対し、東の海から来た大きな亀は、「お前の住んでいる所は狭くて暗いが、私の住んでいる東の海は広くて明るい」と返した。
「井の中の蛙(かわず)」として知られており、狭い世間に安住していい気になっている人に、大自然の広大な真理は分からないと戒めています。
【外篇十九】木鶏(もっけい)に似たり[似木雞] |
ある男が王様に頼まれて強い闘鶏(とうけい)を育てたが、その鶏は敵の鶏が挑みかかってきても、少しも態度を変えようとしない。まるで木彫りの鶏のようだ。
木鶏のように敵意を持たない人の周囲は、常に平穏であり、木鶏のような態度が指導者としての理想像であると説いています。
【雑篇ニ十五】蝸牛角上の争い[有國於蝸之左角者曰觸氏,有國於蝸之右角者曰蠻氏] |
むかしカタツムリ(蝸牛)の左右の角の上の国が、互いに土地を争って戦争を始めた。両国は決死の覚悟で戦い、多くの死者を出した。
我々の国は、宇宙の大きさから比べれば小さな存在である。国同士の戦争など、宇宙から見れば小さなことに過ぎないと差としています。

