普勧坐禅儀を読む

/禅宗

普勧坐禅儀とは

普勧坐禅儀とは、宋から帰国から帰国した道元によって、1227年に書かれた坐禅の指南書です。坐禅の意義、心得、方法について述べられており、坐禅を普(あまね)く勧める書となっています。

普勧坐禅儀を読む

原ぬるに夫れ、道本円通いかでか修証を仮らん。宗乗自在なんぞ功夫を費さん。況や全体遥かに塵埃を出づ、たれか払拭の手段を信ぜん。凡そ当処を離れず、豈修行の脚頭を用うる者ならんや。
そもそも仏法というものは全てに行き渡っており、修行して悟るものではない。仏法は自在に手に入れることができるので、工夫をする必要もない。まして我々は塵や埃から離れたものであるため、塵や埃を払う必要もない。そのため悟りを求めて遠くまで修行に出かけなくてもよい。
然れども毫釐も差あれば天地はるかに隔り、違順僅かに起れば紛然として心を失す。たとい会に誇り悟に豊かにして、瞥地の智通を獲、道を得、心を明らめて衝天の志気を挙し、入頭の辺量に逍遥すといえども、ほとんど出身の活路を虧闕す。
しかし僅かでも方向を誤れば、天と地ほども悟りから隔たってしまい、僅かでも意に反すれば本来の心を失ってしまう。たとえ仏法の理解を誇ったり、僅かな智慧をもって仏道を得たと得意になっても、それは解脱の道を塞いでしまっているに等しい。
いわんやかの祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見つべし。少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名尚聞こゆ。古聖既に然り、今人なんぞ弁ぜざる。ゆえに須らく言を尋ね、語を逐うの解行を休すべし。須らく回光返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落して、本来の面目現前せん。恁麼の事を得んと欲せば、急に恁麼の事を務めよ。
言うまでもなく釈迦は悟りを開くまで6年間端座されたことを見るべきだ。また面壁9年といわれる達磨は今尚その名声が聞かれる。昔の聖人でさえこれほど坐禅を行ったのだから、今の我々が坐禅をしないでおれようか。書物などの言葉を研究し理解しようとするようなことは止めて、内にある本来の自己を悟る修行を行うべきだ。そのとき身心は自然に脱落して、真の自己が現れるだろう。そうした悟りを得たいのなら、直ちに坐禅に務めるがよい。
夫れ参禅は静室宜しく、飲食節あり。諸縁を放捨し万事を休息して、善悪を思わず是非を管すること莫れ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図ること莫れ。豈坐臥に拘わらんや。
さて坐禅は静かな部屋で行い、過食や空腹にならず、雑事を忘れ、事の善悪や是非を考えてはならない。心や意識を働かせることを止め、念じたり想ったり観たりすることも止め、仏に成ろうと思ってもいけない。また坐禅をしている時だけが修行ではない。
尋常坐処には厚く坐物を敷き、上に蒲団を用う。或いは結跏趺坐、或いは半跏趺坐。曰く結跏趺坐は、先ず右の足を以って左の腿の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず。半跏趺坐は、只左の足を以って右の腿を圧すなり。寛く衣帯を繋けて、斉整均ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安ず。両の大拇指を面ひて相拄う。
坐禅は厚い敷物を敷き、その上に坐蒲を置いて坐る。坐り方には結跏趺坐と半跏趺坐がある。結跏趺坐は、まず右の足を左の腿の上に置き、次に左の足を右の腿の上へ置く。半跏趺坐は左の足を右の腿の上へ置くだけでよい。衣服はゆったりしたものを整えて着ること。次に右の手を左の足の上に置き、左の手を右の手のひらの中に置き、両方の手の親指の先を付ける。
乃ち正身端坐して、左に側ち、右に傾き、前に躬り、後に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍と対せしめんことを要す。舌は上の顎に掛けて、唇齒相著け、目は、須らく常に開くべし。
そして背筋を伸ばし、左に傾いたり、右に傾いたり、前屈みになったり、後ろに反り返ってはいけない。耳と肩、鼻と臍がそれぞれ一直線上になるようにする。舌は上顎につけ、唇も歯も上下合わせて閉じ、目は常に開いておく。
鼻息微かに通じ、身相既に調えて、欠気一息し、左右搖振して、兀兀として坐定して、この不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量、此れ乃ち坐禅の要術なり。
呼吸は鼻から静かにする。身体の姿勢が調ったら、口を少し開けて大きく息を吐き出す。 左右に身体を揺らして、坐が落ち着いたところで静止し、不動の姿勢で坐り込む。思考を止めて、無心のまま坐り続ける。考えないこと、これが坐禅の秘訣である。
所謂坐禅は、習禅には非ず。唯是安楽の法門なり。菩提を究尽するの修証なり。公案現成、羅籠未だに到らず。若しこの意を得ば、龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たり。當に知るべし、正法自ら現前し、昏散まず撲落することを。若し坐より立たば、徐徐として身を動かし、安祥として起つべし。卒暴なるべからず。
いわゆる坐禅は単に心を落ち着けるものではなく、安楽の法門である。坐禅は仏道を究めるためであり、悟りの姿である。坐禅をすると仏道が実現し、身心の自由を得ることができる。この意味を体得できたなら、竜が水を得て天に昇るように、虎が山に潜むように、真の自己の力を発揮できるようになる。物事の実相が目の前に現れ、心の迷いは消えてしまう。坐禅を終えるときはゆっくりと身体を動かし、静かに立ち上がること。急に立つようなことはしてはいけない。
嘗て観る、超凡越聖、坐脱立亡も、此の力に一任することを。況やまた指竿針鎚を拈ずるの転機、仏拳棒喝を挙するの証契も、未だに是思量分別の能く解する所にあらず。豈神通修証能く知る所とせんや。声色の外の威儀たるべし。なんぞ知見の前の軌則に非ざる者成ならんや。
古人に目を向けると、迷いをも悟りをも超え死も乗り越えて行けるのは、この坐禅の力によるものである。さらにまた、指・竿・針・鎚などや、払・拳・棒・喝などの禅の指導手段は、思慮分別で理解できるようなものではなく、神通力の及ぶところでもない。それは人間の感覚を離れた境地であって、知見の及ぶような真理ではない。
然れば則ち上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ぶことなかれ。専一に功夫せば、正に是弁道なり。修証自ら染汙せず、趣向更に是平常なる者なり。
だから、智慧のあるなしは問題なく、利口であるか否かは関係ない。ただ一心不乱に坐れば、それが正しい仏道修行を実践しているのである。修行の中に悟りがあり、そこに汚れはない。修行が進んでも、平常と変わることもない。
凡そ夫れ自界他方、西天東地、等しく仏印を持し、もっぱら宗風を擅にす。唯打坐を務めて、兀地に礙えらる。万別千差と雖も、祗管に参禅弁道すべし。何ぞ自家の坐牀を抛却して、みだりに他国の塵境に去来せん。若し一歩を錯れば、当面に蹉過す。
あらゆる世界において、正しい仏法は直々に伝えられてきたが、それは皆等しく坐禅によって伝えてきたのである。仏道修行には千差万別があるが、ただひたすら坐ることだ。どうして自分の坐禅の場を離れ、あちこちさまよう必要があるか。もし、やり方を間違えると見失ってしまうだろう。
既に人身の機要を得たり、虚しく光陰を度ること莫れ。仏道の要機を保任す、誰かみだりに石火を楽まん。加え以って形質は草露の如く、運命は電光に似たり。倐忽としてすなわち空じ、須臾に即ち失す。
我々には仏道を成就できる能力と機会があるのだから、無駄に年月を過ごしてはならない。そればかりか我々の身体は葉の上の露のように、命は稲妻のように一瞬のものである。あっという間に消えて無くなってしまうものだ。
冀くは、其れ参学の高流、久しく摸象に習って真龍を怪むこと勿れ。直指端的の道に精進し、絶学無為の人を尊貴し、仏仏の菩提に合沓し、祖祖の三昧を嫡嗣せよ。久しく恁麼を為さば、須らく是恁麼なるべし。宝蔵自ら開けて、受用如意ならん。
仏道の修行をする尊い人々よ、偽物に慣れ親しんで、この本物の仏法を怪しむようなことがあってはならない。正しい修行である坐禅に励み、思慮を超越した境地を知り、仏祖の境界と一致して、その三昧の境地を受け継いでゆくのだ。そのような修行を行えば、仏性は自ら現れて、自由自在に自分のものとして使うことができるようになるだろう。

 

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