修証義を読む

/禅

第一章 総序(そうじょ)

【第1節】しょうあきらめあきらむるは仏家一大事ぶっけいちだいじ因縁いんねんなり、生死しょうじの中にほとけあれば生死しょうじなし、 但生死ただしょうじすなみち涅槃ねはん心得こころえて、生死しょうじとしていとふべきもなく、涅槃ねはんとしてねがふべきもなし、 是時このとき初めて生死を離るるぶんあり、唯一大事ただいちだいじ因縁と究尽ぐうじんすべし。

生とは何か、死とは何かを明らかにすることは、仏教徒として大事なことである。生死の中に悟り(仏)があれば、迷いはない。ただ、生死を悟りの境地(涅槃)と心得れば、生死を嫌うこともなく、悟りの境地を願うこともなくなる。この時、初めて生死の迷いから離れることができるので、唯一大事なこととして究めるべきだ。

【第2節】人身にんしんること難し、仏法ふことまれなり、今我等宿善しゅくぜんたすくるに依りて、 すでに受け難き人身にんしんを受けたるのみにあららずひ難き仏法にたてまつれり、生死の中の善生ぜんしょう最勝さいしょうの生なるべし、最勝の善身ぜんしんいたずらにして露命ろめいを無常の風に任することなかれ。

人間として生まれることは難しく、仏法に出会うことは稀である。今の我々は、これまでの功徳により有り難くも人間として生まれ、仏法にも出会うこともできた。これは輪廻の中では善い人生であり、最も勝れた人生である。その最も勝れた善い人生を、無駄に過ごしてはならない。

【第3節】無常たのみ難し、知らず露命ろめいいかなる道の草にか落ちん、身已みすでに私に非ず、 命は光陰こういんに移されてしばらくもとどめ難し、紅顔こうがんいずこへか去りにし、尋ねんとす るに蹤跡しょうせきなし、つらつらかんずる所に往事おうじの再びうべからざる多し、 無常たちまちに到るときは国王大臣親暱しんじつ従僕じゅうぼく妻子珍宝ちんほうたすくる無し、唯独ただひと黄泉こうせんおもむくくのみなり、己れにしたがい行くは只れ善悪ごう等のみなり。

この世は無常で頼りにならない、短い人生はどのように終わるか分からない。自分の人生は自分の思い通りにはならず、光陰のごとく過ぎて行き、僅かでも留めておくおくことは難しい。若いときの自分はどこかに去り、面影を探しても跡形もない。過ぎ去った時間は再び訪れることはない。死(無常)に至るときは、国王も、大臣も、親族も、従者も、妻子も、財宝も助けてはくれない。ただ独り黄泉に行くのみである。その時に持って行けるものは、生前になした善悪の行いの結果のみである。

【第4節】今の世に因果を知らず業報ごっぽうを明らめず、三世さんぜを知らず、善悪をわきまえざる邪見の党侶ともがらにはぐんすべからず、大凡おおよそ因果の道理歴然れきねんとしてわたしくなし、造悪ぞうあくの者は修善しゅぜんの者はのぼる、豪釐ごうりたがわざるなり、し因果ぼうじじてむなしからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師そし西来せいらいあるべからず。

この世の因果の道理を知らず、この世の行いと報いを明らかにせず、過去・現在・未来の因果を知らず、善と悪とを区別することをしない人々と交わってはならない。因果の道理は公平である。悪をなした者は悪道に堕ち、善をなした者は善き道に昇ることは間違いのないことである。もし、この因果の道理が間違っていれば、仏がこの世に現れることはなく、達磨がインドから中国に来ることもなかっただろう。

【第5節】善悪の報に三時さんじあり、一者ひとつには順現報受じゅんげんほうじゅニ者ふたつには順次生受じゅんじしょうじゅ三者みつには順後次受じゅんごじじゅ、これを三時という、仏祖ぶっそどう修習しゅじゅうするには、その最初よりこの三時の業報ごっぽうならあきらむるなり、しかあらざれば多くあやまりて邪見につるなり、ただ邪見に堕つるのみにあらず、 悪道あくどうに堕ちて長時ちょうじの苦を受く。

善悪の行いと報いの関係には3種類ある。第1は今の人生の行いの結果が今の人生に現れること、第2は今の人生の行いの結果が次の人生で現れること、第3は今の人生の行いの結果が更に後の人生で現れることである。仏の道理を修め習うときは、最初にこの3種類の因果を学ぶのである。そうでなければ、多くの者は間違った見解に陥るのみでなく、悪道に陥り長く苦しむことになる。

【第6節】まさに知るべし今生こんじょうの我身ふたつ無し、つ無し、いたずらに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得かんとくせん、おしからざらめや、悪を造りながら悪にあらずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟じゃしゆいするに依りて悪の報を感得かんとくせざるには非ず。

今の人生は2つも3つもないことを知るべきだ。誤った見解に堕ちて、空しく人生を過ごしては、惜しんでも惜しみきれない。悪をなしても悪ではないと思い、その報いはないと考えても、悪い報いがなくなるわけではない。

第二章 懺悔滅罪(さんげめつざい)

【第7節】仏祖あわれみの余り広大の慈門じもんを開き置けり、是れ一切衆生しゅじょう証入しょうにゅうせしめんが為なり、人天にんてんたれか入らざらん、の三時の悪業報ごっぽう必ず感ずべしといえども、懺悔さんげするが如きは重きを転じて軽受きょうじゅせしむ、又滅罪清浄めつざいしょうじょうならしむるなり。

仏祖は慈悲の心から救いの門を開いてこられた。これは全ての衆生を安楽へと導くためのものです。これを拒む者がいるだろうか。我々はこれまで罪を犯しているが、その罪を懺悔したなら、その報いは軽くなり、心は清浄なものになる。

【第8節】しかあれば、誠心じょうしんを専らにして前仏ぜんぶつに懺悔すべし、恁麼いんもするとき前仏懺悔の功徳力くどくりき我をすくいて清浄ならしむ、この功徳無礙むげ浄信じょうしん精進を生長しょうちょうせしむるなり。浄信一現じょうしんいちげんするとき、自佗じた同じく転ぜられるなり、その利益りやくあまねく情非情にごうぶらしむ。

誠を込めて仏に懺悔をすべし、そうすると懺悔の功徳により、我々を救い心を清浄にするだろう。この浄らかな心は、正しい道を歩む上での助けとなる。清浄な心が現れれば、自分だけでなく周りの人も変わっていく。このご利益は人に限らず、山川草木にまで広がっていくだろう。

【第9節】その大旨だいしは、願わくは我れたとい過去の悪業あくごう多く重なりて障道しょうどうの因縁ありとも、仏道に因りて得道とくどうせりし諸仏諸祖我をあわれみて、業累ごうるいを解脱せしめ、学道さわり無からしめ、その功徳法門あまね無尽法界むじんほっかいに充満弥綸みりんせらん、哀みを我に分布すべし、仏祖の往昔おうしゃく吾等われらなり、吾等われら当来とうらいは仏祖ならん。

その凡そは「私は過去に悪業を積んおり、求道の妨げになっていますが、仏道を悟られた仏祖の方々が私を憐れんで、煩悩から解放させ、道を見失わないよう、仏の功徳は世の中に広く及ぼし、我々に分かちくださるように」と。仏も昔は我々と同じ凡夫であり、我々も将来は仏となることができるだろう。

【第10節】我昔所造諸悪業がしょくしょぞうしょあくごう皆由無始貪瞋癡かいゆうむしとんじんち従身口意之所生じゅうしんくいししょしょう一切我今いっさいがこん皆懺悔かいさんげかくの如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助みょうじょあるなり、心念身儀しんねんしんぎ発露ほつろ白仏びゃくぶつすべし、発露ほつろの力罪根ざいこんをして銷殞しょういんせしむるなり。

「私が昔から積み重ねた様々な悪い行いは、遠い過去に遡る貪り、怒り、愚かさにより生じたものであり、それは身体と言葉と意思から生じたものです。その一切を今私は懺悔します」。このように懺悔すると、必ず仏は助けてくださるのである。だから、心に念じ、身を正し、仏に告白するがよい。罪の根は消滅するだろう。

第三章 受戒入位(じゅかいにゅうい)

【第11節】次には深く仏法僧の三宝さんぼうを敬い奉るべし、しょうえ身を易えても三宝を供養し敬い奉らんことをねごうべし、西天東土さいてんとうど仏祖正伝ぶっそしょうでんする所は恭敬くぎょう仏法僧なり。

次には、仏・法・僧の三宝を深く敬わなければならない。生まれ変わっても、3つの宝を敬うことを願うものでなければならない。インドから中国を経て伝わってきた仏の教えの根本にあるのは、この三宝を敬う心である。

【第12節】若し薄福少徳はくふくしょうとく衆生しゅじょうは三宝の名字みょうじお聞き奉らざるなり、いかいわんや帰依し奉ることを得んや、いたづら所逼しょひつを怖れて山神鬼神等に帰依し、或は外道の制多せいたに帰依すること勿れ。彼はその帰依に因りて衆苦しゅくを解脱すること無し、早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて、衆苦を解脱げだつするのみにあらず菩提を成就じょうじゅすべし。

もし、運もなく徳も少ない衆生は、三宝という言葉を耳にすることはなく、ましてや三宝を敬うこともない。いたずらに不安を怖れて迷信に頼ったり、誤った道を信じてはならない。それらを依り処にしても、苦しみから解脱できるものではない。早く仏・法・僧の三宝を依り処にし、苦しみから解脱するのみでなく、正しい智慧に目覚めなければならない。

【第13節】その帰依三宝とは正に浄信じょうしんを専らにして、或は如来現在世にもあれ、或は如来滅後にもあれ、合掌し、低頭ていずして口に唱えていわく南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す、僧は勝友しょうゆうなるが故に帰依す、仏弟子となること必ず三帰に依る、いづれの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後そののち諸戒を受くるなりしかあれば則ち三帰に依りて得戒とくかいあるなり。

三宝を依り処にするとは、正しく清らかな信心をもち、仏が現世に居ようと、入滅していようと、合掌して礼拝し、南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧と唱えることである。仏は偉大な師であるから敬い、法は良い薬であるから敬い、僧は優れた友であるから敬い、仏の弟子となることは三宝を敬うことである。どのような戒律を受けようとも、まず三宝を敬い、その後で戒律を受けるべきである。三宝を依り処にしてのみ受戒を得ることができるだろう。

【第14節】この帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交かんのうどうこうするとき成就するなり、たとい天上人間地獄鬼畜なりといえども、感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、すでに帰依し奉るが如きは生生世世在在処処に増長し、必ず積功しゃっく累徳し、阿耨多羅あのくたら三藐さんみゃく三菩提を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深じんじん不可思議なりということ、世尊すで証明しょうみょうしまします、衆生まさに信受すべし。

この仏・法・僧の三宝を敬う功徳により、信仰の心が仏に通じる。たとえ仏道から離れた生き方をした者であっても、信仰の心が仏に通じれば、必ず三宝を敬う心が起る。すでに真実を理解する心が生じたなら、生を代わり何処にあろうとも、その働きは増し、功徳を重ね真理を悟るだろう。三宝を敬うことの功徳が最も尊く甚だ深いことは、世尊が身をもって証明しており、我々も信じて従うべきである。

【第15節】次にはまさ三聚浄戒さんじゅじょうかいを受け奉るべし、第一摂律儀戒しょうりつぎかい、第二摂善法戒しょうせんぼうかい、第三摂衆生戒しょうしゅじょうかいなり、次には応に十重禁戒を受け奉るべし、第一不殺生戒ふせつしょうかい、第二不偸盗戒ふちゅうとうかい、第三不邪婬戒ふじゃいんかい、第四不妄語戒ふもうごかい、第五不酒戒、第六不説過戒、第七不自賛毀佗戒、第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒ふしんいかい、第十不謗三宝戒ふほうさんぽうかいなり、上来三帰、三聚浄戒さんじゅじょうかい、十重禁戒、是れ諸仏の受持したまう所なり。

次に、三つの誓願を立てないさい。第一に不善を捨て去ること、第二に善行に励むこと、第三に人々に尽くすことを誓いなさい。次に十の戒めを守ること、第一に生き物を殺さないこと、第二に人のものを盗まないこと、第三に愛欲に溺れないこと、第四に嘘を言わないこと、第五に酒を飲まないこと、第六に人の過ちを責めないこと、第七に驕らないこと、第八に人への施しを惜しまないこと、第九に怒りで自分を失わないこと、第十に三宝を謗(そし)らないことを誓いなさい。これらの三宝を敬う心と三つの誓願と十条の戒めは、仏が守り実践してきた道なのである。

【第16節】受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊こんごうふえの仏果を証するなり、たれの智人か欣求ごんぐせざらん、世尊明らかに一切衆生の為に示しまします、衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏のくらいる、くらい大覚だいがくに同じうしおわる、まことに是れ諸仏のみこなりと。

受戒することは、過去・現在・未来の仏が悟った不変の真理を得ることである。智慧ある者がその真理を求めないことはない。世尊は明らかに、全ての人々にこの真理を示している。人々が仏の戒めを受入れれば、仏の位に達し、悟った者として、真の仏の子となるだろう。

【第17節】諸仏の常に此中このなかに住持たる、各各の方面に知覚を遺さず、群生のとこしなえに此中に使用する、各各の知覚に方面あらわれず、この十方法界じっぽうほっかいの土地草木牆壁しょうへき瓦礫がりゃく皆仏事をすを以て、その起す所の風水の利益りやくに預るともがら、皆甚妙不可思議の仏化に冥資みょうしせられてちかき悟りをあらわす、是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、是れ発菩提心なり。

仏は常に戒に沿った生き方をしている。意識することなく、自然に戒に沿ったものになっており、何かに意識が囚われて戒を破るようなこともない。そのとき、この世の全てのものは真理を現しており、我々は自然の恩恵に預かり、人知の及ばない仏の加護により悟りを得ることができる。これは作為的なものではなく、悟りを得ようとした心から発したものである。

第四章 発願利生(ほつがんりしょう)

【第18節】菩提心をおこすというは、おのれ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり、たとい在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度じみとくど先度佗せんどたの心をおこすべし。

悟りを得ようとする心を起こすことは、自分が救われる前に、全ての衆生を救おうと誓いを立てることである。たとえ在家であろうと、出家であろうと、どのような境遇であろうと、苦しい時も楽しい時も、自分の救済よりも他人の救済を願う心を起こさなくてはならない。

【第19節】そのいやしというも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり、たと七歳しちさいの女流なりとも即ち四衆ししゅの導師なり、衆生の慈父じふなり、男女なんにょを論ずること勿れ、此れ仏道極妙ごくみょうの法則なり。

その姿が粗末であっても、この心を起こせば、全ての衆生の指導者となるだろう。たとえ幼い女子であっても、修行者たちの指導者であり、衆生の慈愛ある親である。男女や長幼は問題ではない。これは仏道における尊い法則である。

【第20節】若し菩提心をおこして後、六趣四生ろくしゅししょうに輪転すといえどその輪転の因縁皆菩提の行願ぎょうがんとなるなり、しかあれば従来の光陰は設いむなしく過すというとも、今生こんじょうの未だ過ぎざるあいだに急ぎて発願すべし、たとい仏に成るべき功徳熟して円満すべしというとも、尚お廻らして衆生の成仏得道とくどうに回向するなり、或は無量ごう行いて衆生を先にわたして自からはついに仏に成らず、但し衆生を度し衆生を利益りやくするもあり。

悟りを得ようとする心を起こした後は、どのような世界に生まれ変わろうと、それは悟りを得るための修行となる。これまでの年月を空しく過ごしたとしても、今の人生のうちに急いで誓いを立てるべきだ。たとえ仏となる条件が調っていても、衆生が成仏できるよう施さなければならない。長い間をかけて衆生を救済しながら、自らは仏とならず、衆生をために尽くした菩薩もいる。

【第21節】衆生を利益すというは四枚しまいの般若あり、一者ひとつには布施ふせ二者ふたつには愛語あいご三者みつには利行りぎょう四者よつには同事どうじ、是れ則ち薩埵の行願なり、その布施というは貪らざるなり、我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、其物の軽きを嫌わず、其功のじつなるべきなり、然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、此生侘生ししょうたしょうの善種となる、一銭一草のたからをも布施すべし、此世侘世しせたせの善根を兆す、法もたからなるべし、たからも法なるべし、但彼が報謝を貪らず、自らが力をわかつなり、舟を置き橋を渡すも布施の檀度だんどなり、治生ちしょう産業固より布施に非ざること無し。

衆生のためになるために四つの教えがある。一つに布施(人に施すこと)、二つに愛語(優しい言葉)、三つに利行(人の手助け)、四つに同事(自分の事として考えること)、これは修行者の誓願である。布施というのは、欲張らないことである。施す物の軽重は関係がなく、真理に適った一言でも布施である。それは将来への善き種となる。法と財はどちらも重要な布施である。相手からの見返りは求めず、自分のできることを分け与えなさい。舟を浮かべて人を対岸に渡すことや、社会活動も布施である。

【第22節】愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心をおこし、顧愛の言語を施すなり、慈念衆生じねんしゅじょう猶如ゆうにょ赤子しゃくしおもいを貯えて言語するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵を降伏ごうふくし、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、むかいて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、むかわずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。

第二の愛語(優しい言葉)とは、人に対して慈しみの心でもって声をかけることをいう。それは母親が乳児を育てるときの言葉である。善き行いをする人を讃え、悪しき行いをする人を憐れむものだ。敵の怒りを鎮め、和解するのも愛語から生まれる。人から愛語を聞けば、笑顔になり、心も楽しくなる。人づてに愛語を聞けば、さらに肝に銘じ、心に刻まれる。愛語には、人の世を動かすほどの力があることを知るべきだ。

【第23節】利行というは貴賎の衆生に於きて利益の善巧ぜんぎょうを廻らすなり、窮亀きゅうき見病雀びょうじゃくを見しとき、彼が報謝を求めず、唯単ひとえに利行に催おさるるなり、愚人ぐにんおもわくは利侘を先とせば自らが利省かれぬべしと、しかにはあらざるなり、利行は一法なり、あまねく自侘を利するなり。

第三の利行(人の手助け)とは、富める者、貧しい者に関わりなく、その人のためになる手助けをすることをいう。窮地にある亀や病弱な雀を助け、その恩返しを受けて出世した故事があるが、それらは恩返しを期待して行ったわけではない。愚かな者は、人の利益になることをすれば、自分が損をすると考えが、決してそうではない。利行は唯一の真実であり、広く人々に利益をもたらすものである。

【第24節】同事というは不違ふいなり、自にも不違なり、にも不違なり、譬えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、侘をして自に同ぜしめて後に自をして侘に同ぜしむる道理あるべし、自侘は時にしたごうて無窮なり、海の水を辞せざるは同事なり、是故このゆえに能く水あつまりて海となるなり。

第四の同事(自分の事として考えること)というのは、自分と人とが違わないことをいう。自分の本心に背かず、相手を受け入れるということである。例えば、人の世に生きる仏が人の姿をしているように、人を救おうとするならば、相手と同じ境遇に立たなければならない。自分と相手は同じ存在となる。川から流れ込む水が一つとなって海となるようなものだ。

【第25節】大凡おおよそ菩提心の行願ぎょうがんにはかくの如くの道理静かに思惟すべし、卒爾にすること勿れ、済度さいど摂受しょうじゅに一切衆生皆化みなけこうぶらん功徳を礼拝らいはい恭敬くぎょうすべし。

悟りを得るための誓願と実践には、以上に述べたような道理(布施・愛語・利行・同事)をよく考え、軽率であってはならない。全ての衆生を受入れて救うことの功徳を、礼拝し慎み敬うべきだ。

第五章 行持報恩(ぎょうじほうおん)

【第26節】この発菩提心ほつぼだいしん、多くは南閻浮なんえんぶ人身にんしんに発心すべきなり、今是かくの如くの因縁あり、願生娑婆しゃば国土しきたれり、けん釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。

この仏心は、多くの人々の中に生まれてきた。様々な縁によって、この世に生を受け、仏の教えと出会えたことは喜ばしいことだ。

【第27節】静かにおもうべし、正法しょうぼう世に流布せざらん時は、身命を正法の為に拠捨ほうしゃせんことを願うともうべからず、正法に逢う今日こんにちの吾等を願うべし、見ずや、仏ののたまわく、無上菩提を演説する師にわんには、種姓しゅしょうを観ずること莫れ、容顔を見ること莫れ、非を嫌うこと莫れ、おこないを考うること莫れ、ただ般若を尊重そんじゅうするが故に、日日三時にちにちさんじ礼拝らいはいし、恭敬くぎょうして、更に患悩げんのうの心を生ぜしむること莫れと。

深く考えると、正しい教えが世の中に伝わっていない時は、正しい教えのために身命を捨て去ろうとしても、如何ともできない。幸いにも、我々は正しい教えに出会えたので、それを学ばなくてはならない。仏の教えを説くときには、相手の生まれや性別は関係なく、外見も関係なく、欠点や行いによっても差別してはならない。ただ真理を尊重し、日々朝夕に礼拝して、敬い、煩悩を生じさせてはならない。

【第28節】今の見仏聞法けんぶつもんぽうは仏祖面面の行持よりきたれる慈恩なり、仏祖若し単伝たんでんせずば、奈何いかにしてか今日こんにちに至らん、一句の恩お報謝すべし、一法の恩尚お報謝すべし、いわん正法眼蔵しょうぼうげんぞう無上大法の大恩これを報謝せざらんや、病雀尚お恩を忘れず三府さんぷかん能く報謝あり、窮亀きゅうき尚お恩を忘れず、余不よふいん能く報謝あり、畜類尚お恩を報ず、人類いかでか恩を知らざらん。

今我々は仏と出会い、その教えを聞くことができるのは、仏の教えを伝えてきた仏師の方々のお蔭である。仏師の方々が伝えなければ、今日はなかっただろう。たとえ一句でも感謝しなければならない。まして真実を説く教えに出会えたなら、さらに深く感謝しなければいけない。雀や亀を助けたら恩返しを受けたという故事もある。動物でさえ受けた恩を忘れていない。人間が恩を忘れるようなことがあってはならない。

【第29節】その報謝は余外よげの法はあたるべからず、唯まさ日日にちにちの行持、其報謝の正道なるべし、謂ゆるの道理は日日の生命を等閑なおざりにせず、私に費やさざらんと行持するなり。

仏の恩に報いる方法は特別なものではない。日々の生活の中で自然と行っていくことが正しい道である。だから日々の生活を修行そのものと捉え、疎かにしないよう心得なくてはならない。

【第30節】光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし何れの善巧ぜんぎょう方便ありてか過ぎにし一日を復びかえし得たる、いたずらに百歳生けらんは恨むべき日月じつげつなり、悲むべき形骸けいがいなり、たとい百歳の日月は声色しょうしき奴婢ぬびと馳走すとも、その中一日の行持を行取ぎょうしゅせば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生たしょうをも度取すべきなり、この一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、この行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし、我等が行持に依りて諸仏の行持見成げんじょうし、諸仏の大道通達つうだつするなり、しかあれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子しゅしなり、諸仏の行持なり。

年月が過ぎるのは矢よりも早く、我々の命は朝露よりもはかない。どんな方法を使っても、一度過ぎ去った年月を元に戻すことはできない。意味もなく生きた百年は悔やむべき人生であり、悲しむべきである。しかし、そのような百年の中に一日でも正しく生きたのなら、無駄に過ごした百年を取り戻すだけでなく、更に百年の正しい人生を過ごしたことに等しい。この一日は尊ぶべきであり、意味がなく過ごした百年も尊いものとなり、敬愛すべきだ。我々が仏の道を歩めば、我々を通して仏がこの世に姿を現わす。すなわち一日の修行は仏の種子となり、仏の修行そのものである。

【第31節】いわゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏そくしんぜぶつなり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、是れ即心是仏なり、即心是仏というはたれというぞと審細しんさいに参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん。

いわゆる仏というのは釈尊であり、釈尊とは即心是仏(心こそが仏であること)である。いつの時代であっても、仏と成るときは釈尊と一つとなっている。これが即心是仏である。即心是仏とは誰なのかということを深く考えなくてはならない。これが真に仏の恩に報いる生き方がである。

 

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