古事記を読む(上巻7~中巻1)

/神道

火遠理命

海幸彦と山幸彦

故、火照命ほでりのみこと海佐知毘古うみさちひこしかるに鰭廣物はたのひろもの鰭狹物はたのせばものを取る、火遠理命ほをりのみこと山佐知毘古やまさちひこしかるに毛麤物けのあらもの毛柔物けのにこものを取る。ここ火遠理命ほをりのみことの兄火照命ほでりのみことう。おのおの佐知さち相易あひかもちいるをす。三度みたびども不許ゆるさず。しかるにつひわづか相易あひかへき。ここに火遠理命ほをりのみこと、海の佐知さちもちて魚を釣り一魚ひとな不得えずまた海にせき。於是こにおいて其の兄火照命ほでりのみこと、其のたまはく、山佐知やまのさち己之おの佐知さち海佐知うみのさち己之おの佐知さちと今おのおの佐知さちを返さむとらし時、其の弟火遠理命ほをりのみこと答へいはく。ながは魚を釣るに一魚ひとな不得えずして、遂に海にせり。然るに其の兄ひ乞ひはたり、故の弟御佩之みはかしの十拳とつかの剣をくだき、五百いほを作り、あが不取とらざり。また一千のを作り、あが不受うけふ。なほ其のまさもとを欲得。

兄の火照命(ホデリノミコト)は海の幸の神(以下、ウミヒコ)となり、海の魚たち――鰭の広い魚・鰭の狭い魚を獲って生業としていました。弟の火遠理命(ホオリノミコト)は山の幸の神(以下、ヤマヒコ)となって、山の獣たち――毛が粗い獣・毛が柔らかい獣を狩って生業としていました。
ある時、ヤマヒコが兄に言いました。
「お互いに、生業を交換してみないか」
三度もお願いしたけれど、兄はなかなか承知しませんでしたが、ついにしぶしぶ交換が許されました。そこでヤマヒコは、海の幸である漁に挑戦しましたが、一匹の魚も釣れず、しかも兄の釣針を海に落として失ってしまいました。
その後、兄のウミヒコは釣針を返すように求めて言いました。
「山の獣も、海の魚も、それぞれ自分の生業がある。もう交換はやめて元に戻そう」
それに対し弟は答えました。
「兄の釣針は、一匹の魚も釣れず、しかも海に落としてしまいました」
それでも兄は頑なに、「どうしてもあの元の釣針を返せ」と強く要求してきました。
そこで弟のヤマヒコは、自分の佩いていた十拳剣を砕き、五百本の釣針を作って償いました。それでも兄は「いらない」と言いました。さらに、一千本の釣針を作って渡しましたが、それでも受け取りませんでした。
そして兄は言いました。
「いや、それではだめだ。どうしても、あの元の釣針がほしい」と。

海神の宮

於是こにおいておと、泣きわづらひ海辺にりし時、塩椎神しほつちのかみ、問ひいはく、何ぞや虚空津日高そらつひこ泣きわづら所由ゆえよし。答へ言ふ、我と兄へてしかるに、其の失せ、ここに其のはれし故、多きあがども不受うけられずはく、なほ其のもとがもと。故之に泣きわづらふ。かれ塩椎神しほつちのかみまをさく我汝命わなみことが為、善きはかりことさむ。すなはち无間勝間まなきかつまの小船に載せ、其の船、ち教へ曰く、我其の船押し流さば、差ししばし往き。まさうまし御路みち有らむ、すなはち其の道に乗り往けば、魚鱗いろこごと造りし所の宮室みやむろそれ綿津見神わたつみのかみあらか。其の神の御門に到らば、かたはら之のかみ湯津香木ゆつかつら有らむ。故其の木の上さば、其の海神わたつみ之のむすめ、見え相議あひはから者ば也。

弟のヤマヒコが、海辺で泣きながら悩んでいたとき、塩椎神(しおつちのかみ)がやってきて、尋ねました。
「そなた、空津日高(アマツヒダカ)の命よ、どうしてそんなに泣いて悩んでおるのか」
ヤマヒコは答えました。
「兄と釣針を交換したのですが、その釣針を海に落としてしまいました。それで兄が返せというので、多くの釣針を作って償いましたが受け取ってくれず、『どうしても元の釣針を返せ』と言います。そのため、こうして悩み泣いているのです」
すると塩椎神はこう言いました。
「私が、あなたのために良い方法を考えて差し上げましょう」
そして、无間勝間(まなしかつま)という小さな船を作り、ウミヒコをその船に乗せ、そして次のように教えました。
「私がその船を流してやります。しばらく漂うと、味御路(うましみち)という立派な通りに出会うでしょう。その道を進むと、魚の鱗のように美しい宮殿が見えてくるはずです。それが綿津見神(海神)の宮殿です。
その神殿の門に着いたら、横の井戸の上に湯津香木(ゆつかつらの木)という木があります。その木の上に腰かけていなさい。そうすれば、海神の娘があなたを見つけて話しかけてくるでしょう」

をしへしたがひ少し行き、ことごとく其のことの如し即ち其の香木かつらに登りり、かれ海神わたつみむすめ豊玉毘賣とよたまひめ従婢はしため玉器たまうつはものを持ちまさに水をまむの時、おいてに光有り。あふぎ見れば、うるは壮夫をとこ。有りいと異奇くしと、以為おもひきかれ火遠理命ほをりのみこと、其のはしため見水みづを得まくり乞ひ、はしためみし水を、玉器たまうつはものに入れまつり進め。しかるに水を不飲のまず御頸みくびろのたまき口に含み、其の玉器たまうつはものつはき入れ、於是こにおいて其のたまうつはものき、はしためたまはな不得えず。故たまままち、豊玉毘賣命とよたまひめのみことに進めき。

そこで、塩椎神の教えに従って少し行くと、言われた通りの光景が整っており、火遠理命は湯津香木(ゆつかつらの木)に登って腰を下ろしました。
すると、海神の娘・豊玉毘売(とよたまひめ、以下、トヨタマヒメ)の侍女が、玉の器を手に水を酌みに井戸へ来たとき、その井戸の中に光が射しているのを見ました。上を見上げると、美しい若者(ヤマヒコ)が座っていました。それを見て、侍女はとても不思議に思いました。そのときヤマヒコは、侍女に向かって「水が欲しい」と頼みました。侍女は水を汲み、玉の器に入れて差し出しました。
しかしヤマヒコは水を飲まず、首飾りの勾玉(まがたま)を外し、口に含んで、唾と一緒に器に吐き入れたのです。するとその勾玉は器にくっついてしまい、侍女はそれを器から取ることができませんでした。
仕方なく、勾玉がくっついたままの器を、トヨタマヒメに差し出したのでした。

かれ其のろのたまを見、はしために問ひ曰く、もし門の外に人有る、答へて曰く、人有り我が井の上の香木かつらの上にり、いとうるは壮夫をとこ也、我がきみして、しかるにいとたふとし、故其の人水を乞ひし、故水をまつれば水を不飲のまず、此のろのたまつはき入れ、是はな不得えず、故ままに入り、まさ来てしかるにまつらむかれ豊玉毘賣命とよたまひめのみことしと思ひ出見いでみすなは見感みかな目合めあはして、しかるに其の父に白曰まをしいはく、吾が門にうるはしき人有り。かれ海神わたつみ自ら出見いでみはく、此の人は天津日高あまつひこ御子みこ虚空津日高そらつひこかな、即ちおいて内にひきい入れ、しかるに美智みちかはたたみ八重やへに敷き、またあしぎぬたたみ八重やへに其の上に敷き、其の上にいまさせまつり、しかるに百取机代物ももとりのつくえしろものそなへ、御饗みあへ即ち、其のむすめ豊玉毘賣とよたまひめめあはき。故三年みとせに至り其の国に住まふ。

そこでトヨタマヒメは、その勾玉を見て、侍女に尋ねました。
「門の外に、誰か人がいるのですか」
侍女は答えて言いました。
「はい、井戸の上の香木の上に、たいへん麗しい壮年の男性がおられます。その姿は、私の王(=あなた)よりもいっそう美しく、まことに尊いお方です。その人に水を乞われましたので、水を差し上げたのですが、水を飲まずに、唾とともにこの勾玉を器に入れられました。そのため、この勾玉は器から離れず、仕方なくそのまま持って参りました」
これを聞いて、トヨタマヒメは不思議に思い、外に出て見に行きました。すると、彼の姿を見て心打たれ、目と目が合い、恋心を抱き、父に伝えました。
「門の外に、たいへん麗しい人がいます」と。
すると海神(綿津見神)は自ら出て見に行き、こう言いました。
「この人は、天津日高(あまつひだか)の御子、虚空津日高(そらつつひだか)である」
すぐに彼を内へ案内し、ミチの皮(美智皮)の畳を八重に敷き、その上に絁(あしぎぬ=上質な布)の畳を八重に敷き、その上に座らせて、百種の贈り物(百取機代)を用意し、盛大な饗応(みあえ)を行い、そして、娘のトヨタマヒメを娶わせました。
その結果、ヤマヒコは三年間、海神の国に住んだのでした。

海幸彦の服従

於是こにおいて火遠理命こにおいて、其のはじめの事を思ひ、しかるにふとき一つなげきし、故豊玉毘賣命とよたまひめのみこと、其の歎き聞くをち、其の父に言ひまをさく、三年みとせ住めつね歎き無く、今夜大き一つ歎きよし有らむ。故其の父大神おほみかみ、其のむこをうとに問ひまおす、今旦我がむすめの語りふを聞かむ。三年みとせませどつね歎き無く、今夜大き歎き為。若し由有りや、またの間到り由や奈何いかかれ其の大神につぶさに、其の兄失せをごとありさま語らむ。是以こをもちて海神ことごと海之の大小魚おほきちひさきのいをを召し集めまおし問わさく、若し此の取りいを有りや、故諸魚もろいをまをす頃は、赤海鯽魚あかちぬおいて、のむむせび物を不得食えはまずうれふと言ふ。故必ず是れ取らむ。於是赤海鯽魚あかちぬ之の喉探らば有り。

ヤマヒコは、その昔の兄との釣針の問題を思い出して、大きくため息をつきました。それを聞いた妻のトヨタマヒメは、父である海神に次のように話しました。
「夫は三年間この国に住んでいましたが、これまで一度も歎いたことはありませんでした。けれども今夜は深く一歎をつきました。いったいどういうわけでしょうか」
すると海神は、娘婿(ヤマヒコ)に尋ねました。
「今朝、娘から『三年住んでいた間はずっと歎くことがなかったのに、今夜に限っては大きく歎いていた』と聞いた。
何か理由があるのか。また、あなたがここへ来た経緯も教えてくれないか」
そこでヤマヒコは、海神に向かって、兄(ウミヒコ)と釣針を交換したこと、そしてそれを海に失い、それが原因で苦しめられていることを、こと細かに語りました。すると海神は、海に棲む大小すべての魚を集めて、こう問いかけました。
「この釣針を飲み込んだ魚がいるなら答えよ」
すると諸々の魚が答えました。
「最近、赤海鯽魚(アカハヤ)が喉に何かを詰まらせて、何も食べられずに苦しんでおります。おそらく、それがその釣針を飲んだのでしょう」
すると、赤海鯽魚(アカハヤ)の喉を探ると、失われた釣針がありました。

すなはち取りいでしかるに清め洗ひ火遠理命ほをりのみことまつりしとき綿津見大神わたつみおほみかみをしこれまをさくもちたまはむときことありさままぢらししかるにおいて後ろ手にたまへ 然而しかりて高田たかた作らみこと下田しもたつく下田しもた作らみこと高田たかたつくしか掌水たなみづゆえ三年みとせかならづまづしみきはもしそれしか恨怨うらしかるにせめたたかは塩盈珠しをみつたまいでしかるにおぼほもしそれうれへ塩乾珠しほふるたまいでしかるにごとくるしままを塩盈珠しほみつたま塩乾珠しほふるたまあは両箇ふたたまさづけき

それを取り出して、清らかに洗い清めてから、ヤマヒコ(山幸彦)に差し上げました。その時、海神はヤマヒコに教えて言いました。
「この釣針を兄(ウミヒコ)に返す時は、次のように言いなさい。
『この釣針は、淤煩鉤(煩わしい鉤)、須須鉤(進まぬ鉤)、貧鉤(貧しい鉤)、宇流鉤(流れ失せる鉤)である』と。
そして、その釣針は、手渡しではなく、必ず後手(しりで)に与えなさい」
さらにこう続けました。
「兄が上流に田を作るなら、あなたは下流に田を作りなさい。逆に、兄が下流に田を作るなら、あなたは上流に田を作りなさい。こうすれば、私は水を司る神なので、三年間は必ず兄が貧しくなるでしょう。
もし、兄がそのことを恨んで怒り、攻めかかってきたなら、潮盈珠(しおみつたま)を出して、海水を溢れさせて溺れさせなさい。そして、もし相手が苦しんで懇願してきたら、潮乾珠(しおひるたま)を出して、水を引かせて命を助けなさい。
このようにして、相手を完全に服従させるのです」
こう言って、海神は潮盈珠と潮乾珠のふたつの宝珠を授けました。

すなはことごと和邇魚わにし集め問曰とはさく今天津日高あまつひこ御子みこ虚空津日高そらつひこまさ上国うはつくに出幸いでたれ幾日いくひ送りまつしかるにかへまをさむかれおのおのおの尋長ひろながままかぎりてしかるにこれまをなか一尋ひとひろ和邇わにまをさくやつかれ一日ひとひ送りすなはかへ故爾しかるゆえ一尋ひとひろ和邇わにらす然者しかればいまし送りまつりて海中わたなか渡らむ時惶畏おそすなは和邇わにくびせ送りいでかれごと一日ひとひうち送りまつなり和邇わにまさかへらむところみはかし紐小刀ひもがたなくびしかるに返しきかれ一尋ひとひろ和邇わに於今いまにおいて佐比持神さひもちのかみ

そこで、海神は和邇魚(わにのうお)をすべて呼び集めて、こう尋ねました。
「今、天津日高の御子のヤマヒコは地上へ帰られようとしている。誰が、何日で送り届けて、また戻って来ることができるか」
するとそれぞれの魚たちは、自分の体の長さに応じて、送迎にかかる日数を申告しました。その中で、一尋(いっしん)の和邇がこう答えました。
「私は、一日で送り届けて、すぐに戻ることができます」
すると海神は、その一尋の和邇に命じて言いました。
「それならば、おまえが御子をお送りしなさい。海の途中を渡るとき、決して恐れたりしてはならぬぞ」
そう言って、ヤマヒコをその和邇の首に乗せて地上へ送り出しました。和邇は約束どおり、一日で山幸彦を送り届けました。
そして帰ろうとする時に、ヤマヒコは、自分の帯につけた小さな刀を取り外し、和邇の首にかけて贈りました。これにより、その一尋の和邇は佐比持神(さひもちのかみ)と呼ばれるようになりました。

是以こをもちことごと海神わたつみをしことごと与へきかれ自爾しかるよりもてのちやうやくいよいよまづしさらあらき心起きまさ塩盈珠しほみつたまいだしかるにおぼほれうれねが塩乾珠しほふるたまいだしかるにすくひき如此このごとめ苦し稽首ふしてぬかつまをさくやつかれ自今いまよりもてのちみことひるよる守護人まもりびとしかるにつかまつらむかれ今に至りおぼほりし時種種くさぐささま不絶たへずつかまつ

このようにして、ヤマヒコは海神の教えの通りに兄のウミヒコへ釣り針を返しました。するとその後、兄は次第に貧しくなり、心が荒れて逆恨みし、弟に攻め寄せてきました。
その際、ヤマヒコは、海神から授かった潮盈珠(しおみつたま)を使って兄を溺れさせ、兄が苦しんで赦しを請うと、潮乾珠(しおひるたま)を使って救いました。このようにして、兄を苦しませて降伏させたとき、兄は平伏してこう誓いました。
「私はこれからは、あなた(ヤマヒコ)に昼も夜もお仕えする守護の者として忠誠を尽くします」と。
このため、今に至るまで、ウミヒコは、かつて海で溺れた時のあらゆる苦しみを忘れず、変わらず仕え続けているのです。

鵜葺草葺不合命

於是こにおいて海神わたつみむすめ豊玉毘売命とよたまひめのみことまひいでまをわれすで妊身はらみうまむ時のぞこれ天神あまつかみ御子みこ海原うなはら不可生うまるべくもあらずおもかれまい出到いでたりなりかれすなは於其そにおいて海辺うみへ波限なぎさ鵜羽うはもちて葺草かや産殿うぶどの造りて於是こにおいて産殿うぶどのいまへず不忍しのばざらむ御腹みはらこれ急故はやみ産殿うぶどのかれ将方まさすでにうま日子ひこまをさくおほよそ佗国人とつくにひとうまむの時のぞ本国もとくにすがたもちうまかれわれもともちうましむ願はくわれ見勿みなか

その後、海神の娘のトヨタマヒメ(豊玉毘売命)は自ら地上へと出て来て言いました。
「私はすでに子を身ごもっており、今まさに出産しようとしています。このような思いから、天神の御子を海の中で生むわけにはいきません。そのため、こうして地上に参りました」
そこで、海辺の波打ち際にて、鵜の羽を葺き草として産屋(うぶや)を建てようとしました。しかし、まだ屋根が葺き終わらぬうちに産気づいてしまい、急ぎその産屋に入って出産しました。
そのとき、トヨタマヒメはその夫であるヤマヒコにこう伝えました。
「一般に、異国の者は出産のとき、本来の姿に戻って子を産むのです。だから私も今、本来の姿に戻って出産します。どうか、その姿を見ないでください」

於是こにおいてことしく思はしてまさにうまぬすうかが八尋やひろ和邇わにりてしかるに匍匐委蛇もとほすなはおどろかしこみてしかるにのが退かれ豊玉毘売命とよたまひめのみことうかが事を知りもちこころはづすなは御子みこきてしかるにまをさくわれつね海道うみぢかよ往来いききしかすがたうかがいたこれはぢすなは海坂うなさかふさぎてすなはちかへりき是以こをもちうまところ御子みこあま日高ひこ日子ひこ波限なぎさ建鵜たけう葺草かや葺不合命ふきあへずのみことふ 

そのとき、ヤマヒコはトヨタマヒメの言葉を不思議に思い、ひそかに出産の様子をのぞこうとしました。そして、彼女が出産する姿を見ると、そこには八尋の和邇(大きな海獣)に変化した姿があり、体をくねらせていたのです。それを見たヤマヒコ火遠理命は、驚き恐れて逃げ出しました。
トヨタマヒメは、その様子を見られていたことに気づき、深く恥じて、子どもを生んで残し、こう言いました。
「私はこれからも、いつでも海の道を通って通いたいと思っていました。しかし、私の本来の姿をのぞき見されてしまったことは、たいへん恥ずかしいことです」
そう言って、海と陸との境を塞ぎ、海の国へ帰ってしまいました。
そのため、トヨタマヒメが残していった御子は、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこ なぎさたけ うがやふきあえずのみこと)と名づけられました。

しかのちうかがひきこころうらども恋心こふるこころ不忍しのばず御子みこをさやしなよしりておと玉依毘売たまよりひめしかるにこれうたまつらむ
の歌にいは
阿加陀麻波あかだまは 袁佐閇比迦禮杼をさへひかれど 斯良多麻能しらたまの 岐美何余曾比斯きみがよそひし 多布斗久阿理祁理たふとくありけり

その後は、あののぞき見したことを恨みに思いはしていたけれど、恋い慕う心をどうしても抑えきれず、せめて子どもを立派に育ててもらおうと、妹の玉依毘売(たまよりひめ)に託し、歌を贈りました。
赤玉(あかたま)は 押さえつけられても、白玉(しらたま=あなた)の装いは、やはり尊く美しい。

しかして比古遅ひこぢ  答歌かへしうたいは
意岐都登理おきつとり 加毛度久斯麻邇かもどくしまに 和賀韋泥斯わがいねし 伊毛波和須禮士いもはわすれじ 余能許登碁登邇よのことごとに

そのとき、ヤマヒコは返歌を詠んで言った。
沖つ鳥が羽を休める、鴨の棲む島に、
共にいたあなたのことを、私は決して忘れません――
この世のすべてのことの中で、ひときわ忘れ難いのです。

かれ日子穂穂手見命ひこほほでみのみこと高千穂宮たかちほのみやし、五百八十歳いほとせあまりやそとせ御陵みささきすなは高千穂山たかちほのやま西に在りなり天津あまつ日高日子ひこひこ波限建なぎさたけ鵜葺うかや草葺不合命ふきあへずのみことをば玉依毘売命たまよりひめのみことめあはしみし御子みこなづ五瀬命いつせのみこと次に稲氷命いなひのみこと次に御毛沼命みけぬのみこと次に若御毛沼命わかみけぬのみことまたの名豊御毛沼命とよみけぬのみことまたの名神倭伊波礼毘古命かむやまといはれびこのみこと  かれ御毛沼命みけぬのみこと波穂なみのほおひて常世国とこよのくにわた稲氷命いなひのみこと妣国ははのくにしかるに海原うなはらしき

こうして、ヤマヒコは高千穂宮に住み五百八十年の間、国を治めた。その御陵は、高千穂山の西にある。
このヤマヒコは、そのおばにあたる玉依毘売命を妻とし御子を生んだ。
名は、五瀬命(いつせのみこと)、次いで稻氷命(いなひのみこと)、次いで御毛沼命(みけぬのみこと)、次いで若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、またの名を豐御毛沼命(とよみけぬのみこと)、または神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)、の四柱です。
御毛沼命は、波を跳び穂を渡って常世の国に行き、稻氷命は、母の国のために海原に入った。

神武天皇

東征

神倭伊波礼毘古命かむやまといはれひこのみこと伊呂兄いろせ五瀬命いつせのみこと二柱ふたはしら高千穂宮たかちほのみやして、しかるはかのたまはく、何地いづくせばや、天下あめのしたまつりごとたひら聞看きこしめす、なほ東へ行かむ思ほす。即ち日向ひむかより筑紫ちくし幸行いでましき、かれ豊国とよのくに宇沙うさ到りの時、土人くにひと名宇沙都比古うさつひこ宇沙都比売うさつひめ、二人あし一騰ひとつあがりの宮を作りて、しかるに大御饗おほみけまつりき、其の地より遷移うつりたまひて、而於しかにおいて筑紫の岡田宮をかたのみや一年ひととせしき。また其の国上りいでまして、而於しかにおいて阿岐国あきのくに多祁理宮たけりのみや七年ななとせしき。

神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト=後の神武天皇、以下、天神の御子)は、その兄の五瀬命(イツセノミコト)と二柱で、高千穂宮に座って相談して言った。
「どの地に居れば、天下の政治を安らかに聞き見することができるだろうか。やはり東に行こうと思う」
そこで日向を出発し、筑紫へと向かった。
豊国の宇沙に到着したとき、その土地の人である宇沙都比古(ウサツヒコ)と宇沙都比賣(ウサツヒメ)の二人が、足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を造って盛大な饗宴を奉った。
その地から移り、筑紫の岡田宮に一年間滞在した。さらにその国から都へ向かって進み、安芸国の多祁理宮(タケリノミヤ)に七年間滞在した。

またの国うつのぼいでまして、しかるにおいて吉備きび高嶋宮たかしまのみや八年やとせしき。かれ其の国上りいでまし、時亀のこふに乗りつりつつ、打ち羽挙はねあげ来る人に速吸門はやすひのせとひ、しかしてし帰し、之を問はさく汝者誰也なはたそ答へまをさく、僕者やつかれは国神くにつかみ又問はさく汝は海道うみぢ知る、答へまをさく。能知よくしりまをす又問はさく従ひ、而仕奉つかへまつ、答へまをさく。仕奉つかへまつらむ故爾しかるゆえ槁機さほはた指渡さしわたし、其の御船みふね引き入れ、即(すなは)ち名賜たまは槁根津日子さほねつひこなづく。

またその国から移って都へお進みり、吉備の高嶋宮(タカシマノミヤ)に八年間滞在した。
この高嶋宮からさらに都へ進むとき、亀の甲に乗って釣りをしていた羽を打ったような姿の人に、速吸門(ハヤスイノト)で出会った。そこで呼び寄せて尋ねた。
「お前は誰だ」
答えて言うには、「私は国の神です」
「お前はこの海道を知っているか」
「よく知っております」
「では我に従って仕えるか」
「お仕えいたします」
そこで天神の御子は、その者を船に引き入れ、渡し守を務めさせ、名を槁根津日子(サオネツヒコ)と授けられた。

かれの国かみいでまし、之の時浪速なみはやこれわたりて、しかるに青雲あをくもこれ白肩津しらかたつ泊めき、の時登美能とみの那賀須泥毘古なかすねひこいくさおこ待向まちむかもちて戦ふ。かれ御船みふね入れし、これ所楯取りて、しかるに下ろし立たし。ゆえ其の地号なづけ、楯津たてつおいて、今は日下之蓼津くさかのたでつと云ふなり於是こにおいて登美毘古とみびこと戦ふ之の時五瀬命いつせのみこと於御手みてにおいて登美毘古とみびこの痛き矢串やぐしを負おふ。故爾しかるがゆえにのたまはく、吾は日神ひのかみ御子みこり。日に向ひてしかるに戦ふは不良よからざる故、いやしやつの痛手をひぬ。今りは行きめぐりて、しかるに日を背負せおひ、もちて撃たむすすみて、しかるに南方みなみかた廻りきしの時、血沼ちぬの海に到りき。其の御手みての血を洗ひし。故血沼の海とひけり也。其のところ廻りき、紀国きのくに男之水門をのみなとに到りて、しかるにのたまはく、いやしき奴の手に負ひて死ぬると。男建をたけびてしかるにほうせり。故其の水門みなとなづけ、男水門をのみなとふ也。みささき即ち紀国の竈山かまやまに在り也。

こうして、その国(吉備)から都へ向かって進む途中、浪速の渡しを経て、青雲の白肩津(シラクヅ)に船を泊めた。
その時、登美の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が軍勢を起こして待ち構え、戦いを挑んできた。そこで御船に立ててあった楯を取り下ろして地に立てたため、その地を楯津(タテツ)と名づけた。今では日下(クサカ)の蓼津(タテツ)という。
この登美毘古との戦いのとき、五瀬命(イツセノミコト)が登美毘古の放った痛い矢を御手に受けられた。そこで五瀬命はこう言った。
「私はアマテラスの御子である。太陽に向かって戦うのはよくない。だから、このように賤しい者の矢で痛手を負ってしまった。これからは回り道をして、太陽を背に受けて攻めよう」
こう決めて、南へ回って進まれる途中、血沼海(大阪湾)に至り、そこでその御手の血を洗われた。これによってそこを血沼海と呼ぶようになった。
さらにそこから回って進み、紀国(和歌山県)の男の水門(オノノミナト)に至ったとき、五瀬命は「賤しい者の矢傷のために、私は死ぬであろう」とおっしゃり、そのまま壮健なまま亡くなられた。
それでその水門を男水門(オノノミナト)と名づけ、御陵は紀国の竈山(カマヤマ)にある。

かれ神倭伊波礼毘古命かむやまといはれびこのみこと其地そこめぐ熊野村くまののむら幸到いでましたる大熊おほくまわづかに出入いでいすなはせきかれ神倭伊波礼毘古命かむやまといはれひこのみこと倐忽あからしま遠延をえ御軍みいくさまでみな遠延をえしてしかるにしきこの時熊野之 高倉下たかくらじ ある横刀たちおいて天神御子あまつかみのみこ到之いたししてしかるに献之まつりし天神御子あまつかみのみこすなはめさのたまはく長寝ながくぬるかれ横刀たちを受け取らせしこれの熊野の山荒ぶる神みづかみな切仆きりふせここにまとしし御軍みいくさことごとめさちぬ

こうして、天神の御子は、紀国から回って進み、熊野村に到着した。すると、大きな熊が現れて出入りし、すぐに姿を消した。その時、カムヤマトはたちまち意識が遠のき、味方の軍の者たちも皆、同じように意識が遠のいて倒れ伏してしまった。
この時、熊野の高倉下(たかくらじ)が一本の横刀(よこがたな)を携えて、天神の御子の倒れている場所へ持ってきて献上した。
すると、天神の御子はすぐに目を覚まされ、「よく眠ったものだな」と言い、その横刀を受け取ったところ、熊野の山にいた荒ぶる神たちが、皆ことごとく斬り倒された。
すると、それまで惑わされて倒れていた味方の軍の者たちも、全員が目を覚ました。

之 故これゆえ天神御子あまつかみのみこ横刀たちりし所由ゆえ高倉下たかくらじに問はし答へまをさくおのいめまをさく天照大神あまてらすおほみかみ高木神たかきのかみ二柱ふたはしらの神みこと建御雷神たけみかづちのかみしたまひてしかるにのたまはく葦原中国あしはらなかつくに伊多玖いたく佐夜藝帝さやげて阿理那理ありけり 葦原中国あしはらなかつくにもはらいまし言向之ことむけしところゆえなれ建御雷神たけみかづちのかみ可降

そこで、天神の御子は、その横刀をどこから得たのかを尋ねた。高倉下(たかくらじ)は答えて言った。
「自分は夢を見ました。その夢の中で、アマテラスとタカギノカミ(高木神)の二柱の神が、タケミカヅチ(建御雷神)を迎えて言った。
『この地上の国は、いまだ平定されておらず、我が御子らも安らかにおられない。その国はまさしくお前が以前に向かった国である。それゆえ、お前(タケミカヅチ)が降りて行け』と」

しかして答へまをさくやつかれ雖不降おりずとももはらの国をたひらげし横刀たち有りたち可降おろすべし たちらしむかたち高倉下たかくらじいただき穿うがそことし入れむかれ阿佐米余玖あさめよく なれ取り持ち天神御子あまつかみのみこまつかれ夢の教へにしたがひてしかるにあしたおのが倉を見れまこと横刀たち有りしゆえ横刀たちもちしかるにまつのみ於是こにおいてまた高木大神たかきのおほみかみみこともちおぼえまをさくこれ天神御子あまつかみのみこここおいて奧のかた使入幸いでましめそ荒ふる神いと多し今あま八咫烏やたがらすつかはすゆえ八咫烏やたがらす引道みちびきしたがの立たしのちこた幸行いでま

「するとタケミカヅチはこう答えました。
『私が降らずとも、この国を平定するための横刀があり、それを降すことができます。この刀を降す方法は、倉の屋根を突き破って、そこから落とし入れます。だから、あなた(高倉下)はそれを取って、天神の御子に献上しなさい』
夢のとおり、翌朝、自分の倉を見ると、果たして本当に横刀がありました。そこで、この横刀を奉ったのです」

そこでまた、タカギノカミの命によって、天神の御子にこのようにお告げがあった。
「天神の御子よ、これより奥の方へは、決して直接お進みになってはなりません。そこには荒ぶる神々が非常に多くいます。今、天から八咫烏(やたがらす)を遣わします。その八咫烏が道案内をしますので、その後に従ってお進みなさい」

かれをしへのおぼえまにま八咫烏やたがらすしりへしたがひて幸行いでま吉野河よしのかは河尻かはじりに到りし時うへ作り取魚すなどりす人有りここに天神御子あまつかみのみこ問ふ汝者誰也いましはたそ答へまをさくやつかれ国神くにつかみ名を贄持之子にへもちのこところ幸行いでませ生尾をはゆる出来いできひかり有りここに汝誰也いましはたそ問はし答へまをさくやつかれ国神くにつかみ名を井氷鹿いひかふ  すなはの山にりてここまた生尾をはゆる人にの人いはほを押し分けしかるに出来いできここに汝誰也いましはたそと問ひ答へまをさくやつかれ国神くにつかみ名を石押分之子いはほおしわくのこふ 今天神御   子あまつかみのみこ幸行いでましきと聞こしゆえ参向まひむかひし  のみ  ところ踏穿越ふみうかちこえ宇陀うだいでまゆえ宇陀うだ穿うがちとやまを

そこで、教えのとおりに八咫烏の後について進むと、吉野川の河口に着いたとき、竹で作った魚捕りの仕掛けを使って魚をとっている人に出会った。
天神の御子が「お前は誰か」と尋ねると、その人は答えた。
「私は国神で、名を贄持之子(にえもちのこ)といいます」
そこから進むと、尾の生えた人が井戸から現れた。その井戸は光り輝いていた。
天神の御子が「お前は誰か」と尋ねると、その人は答えた。
「私は国神で、名を井氷鹿(いひか)といいます」
さらにその山に入ると、また尾の生えた人に出会った。この人は、大きな岩を押し分けて出てきた。
天神の御子が「お前は誰か」と尋ねると、その人は答えた。
「私は国神で、名を石押分之子(いしおしわけのこ)といいます。今、天神の御子がこちらにおいでになると聞き、参上したのです」
そしてその地から山を踏み越えて宇陀に入ったので、その地を「宇陀の穿(うだのうがち)」という。

故爾於そゆえにおいて宇陀うた宇迦斯うかし  おと宇迦斯うかし二人ふたひと有りかれさきつかはし八咫烏やたがらす二人ふたひとに問ひていはく今天神御子あまつかみのみこ幸行いでましきいまし仕奉乎つかへまつらむや於是こにおいて兄宇迦斯えうかし鳴鏑かぶらやもちて待ちの使ひに射返いかへかれ鳴鏑かぶらやところところ訶夫羅前かぶらさきなりまさ待ち撃たむとしかるにいくさあつめむしかるにいくさ不得聚えあつめざあざむいつはりて仕奉つかへまつしかるに大殿おほとの作り於殿内とののうち押機おしはた作りて待ちく時に弟宇迦斯おとうかし先に参向まいむかをろがまをさく僕兄わいろせ兄宇迦斯えうかし天神御子あまつかみのみこ使つかひ射返いかへまさ待ち攻めむとしかるにいくさあつ不得聚えあつめざ殿との作りの内に押機おしはた張りてまさ待ちて取らむとすかれ参向まいむかひてあらはまをしき

そこで、宇陀の地に兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)の二人がいた。
まず、八咫烏を遣わして二人に問わせた。
「今、天神の御子がお越しになる。お前たちはお仕えするか」
すると兄宇迦斯は、音の出る鏑矢を放って、その使者を追い返した。このとき、その鳴鏑の落ちた場所を訶夫羅(かぶら)の前という。
兄宇迦斯は「これから待ち伏せして攻めよう」として軍勢を集めようとしたが、うまく集まらなかった。そこで表向きは従うふりをして、大殿を作り、その殿の中に弓の矢を放つための仕掛けを設け、時が来るのを待った。
一方、弟宇迦斯は先に参上し、こう申し上げた。
「私の兄は天神の御子の使いを射返し、待ち伏せして攻撃しようと軍勢を集めましたが、うまく集まらなかったので、従うふりをして大殿を作り、その中に押機を張って、捕らえようと待っています。そこで、参上してこのことをお伝えに参りました」

ここに大伴連おほとものむらじおや道臣命みちのおみのみこと久米直くめのあたひおや大久米命おほくめのみこと二人ふたひと兄宇迦斯えうかしびて 罵詈云あしざまにいはく ところ作りつかまつらむに於おいて大殿おほとのうち意礼おれ 先にりてまさ為仕奉之つかへまつらむとせし    かたちあきらけまをしかるにすなは横刀たち手上たがみ握り由気ゆき  矢つがしかるに追ひいりすなはおのところ作りしおし見打うたえしかるに死にきこれすなは控出ひきいで斬り散らしきかれの地を宇陀之血原うだのちはらなり然而しかるがゆえに弟宇迦斯おとうかし大饗おほあへまつことごと御軍みいくさたまはの時みうたよみたまひていは

そこで、大伴連らの祖の道臣命(みちのおみのみこと)と、久米直らの祖の大久米命(おおくめのみこと)の二人は、兄宇迦斯を呼びつけ、罵って言った。
「お前が大殿の中で用意していたことは、すでに弟が先に来て、はっきりと暴露したぞ。その企みはもう明らかだ」
そして、横刀を握った手に矛を突き立てるように矢を射かけ、追い詰めて殿の中へ入ったとき、宇迦斯は自分で仕掛けていた弓矢の罠に当たって死んだ。そのあと、彼の亡骸を引きずり出して、首を斬り捨てた。このため、その地を宇陀の血原(ちはら)という。
そして、弟宇迦斯が献上したごちそうは、すべて天皇の軍勢に与えられた。このとき歌を詠んだ、

宇陀能うだの多加紀爾たかきに 志藝和那しぎわな波留はる 和賀わが麻都夜まつや 志藝波しぎは佐夜良受さやらず 伊須久いすく波斯はし 久治良くぢら佐夜流さやる 古那美賀こなみが 那許なこ波佐婆はさば 多知たち曾婆能そばの 微能みの那祁久袁なけくを 許紀志こきし斐惠泥ひえね 宇波うは那理賀なりが 那許なこ婆佐婆はさば 伊知いち佐加紀さかき 微能みの意富祁久袁おほきくを 許紀陀こきだ斐惠泥 ひえね
畳々ぜゝ  志夜しや胡志夜こしや 此者こは伊能いの碁布曾ごふぞ 阿々あゝ 志夜しや胡志夜こしや 此者こは嘲咲者あざけらばなり
かれ弟宇迦斯

宇陀の高地に仕掛けられた罠よ、
私が待ち構えるときに、茂って妨げるな。
立派な梓弓よ、その弓を挟む子供のように、
もしお前(敵)が妨げるなら、館のそばの
水に浮かぶ雲のようなものをすくって棄ててしまえ。
宇波なりのように、もしお前が妨げるなら、
市坂の大きな雲のようなものをすくって絶ち切ってしまえ。
「たたたみしやごしや」というのは、
これは矢を射るときの掛け声である。
「あああ音引しやごしや」というのは、
これはあざ笑うときの言葉である。

ところ幸行いでまして忍坂おさか大室おほむろいたりましし生尾をはゆる土雲つちぐも八十建やそたけるむろりて待ち伊那流いなる  かれその天神あまつかみ御子みこみこともち八十建やそたけるあへたまは於是こにおいて八十建やそたける八十やそ膳夫かしはでまうひとごとたち膳夫かしはでをしのたまはを歌ふを聞か一時ひとときともにかれまさ土雲つちぐも打たむを明かししこれ歌にいは

その地を後にして進み行き、忍坂の大室に至ったとき、土雲の首領である八十建(やそたける)たちが建物の中で待ち構えていた。
そこで天神の御子は命じて、八十建たちに宴をもてなすことにした。すると八十建は、八十人の給仕役を配置し、それぞれに刀を腰に帯びさせ、そしてその給仕役たちにこう教えた。
「歌が聞こえたら、そのとき一斉に斬れ」
こうして、いよいよその土雲たちを討とうとする歌を歌った。

意佐加能おさかの 意富牟盧夜爾おほむろやに 比登佐波爾ひとさはに 岐伊理袁理きいりをり 比登佐波爾ひとさはに 伊理袁理登母いりをりとも
美都美都斯みつみつし 久米能古賀くめのこが 久夫都都伊くぶつつい 伊斯都都伊母知いしつついもち 宇知弖斯夜麻牟うちてしやまむ
美都美都斯みつみつし 久米能古良賀くめのこらが 久夫都都伊くぶつつい 伊斯都都伊母知いしつついもち 伊麻宇多婆余良斯いまうたはよらし

此の歌の如くしてしかるにたち抜き一時ひとときに打ち殺しき

勇ましい大室山の人たちよ、戦いの場に立ち並び、戦いの場に居並べ。
整然と、久米の子らよ、勇み立て。
勇み立って討て、討ち尽くせ。
討ち果たしたなら、皆で舞い遊ぼう。
みつみつし、久米の壮士らよ、勇み立て。
勇み立って討て、討ち尽くせ。
今こそ歌い踊ろうぞ。

こうしてこの歌を歌いながら、刀を抜き放ち、一斉に討ち殺した。

しかのちまさ登美毘古とみひこ撃たむみうたよみたまひていは
美都美都斯みつみつし 久米能古良賀くめのこらが 阿波布爾波あはふには 賀美良比登母登かみらひともと 曾泥賀母登そのがもと 曾泥米都那藝弖そねめつなぎて 宇知弖志夜麻牟うちてしやまむ

その後、登美毘古(とみびこ)を討とうとするとき、次のように歌った。

堂々と、久米の壮士らよ、一気に、敵を打ち払え。
それを攻め落とせ。
それを滅ぼし尽くして、討ち取ろう。

みうたよみたまひていは
美都美都斯みつみつし 久米能古良賀くめのこらが 加岐母登爾かきもとに 宇惠志波士加美うえしはじかみ 久知比比久くちびひく 和禮波和須禮志われはわすれじ 宇知弖斯夜麻牟うちてしやまむ

また、次のように歌った。

堂々たる、久米の壮士たちよ、
垣根のように密に連なって 敵を囲み、押し詰めよ。
口々に戦いの声を上げ、我らは必ず討ち取ろう

みうたよみたまひていは
加牟加是能かむかぜの 伊勢能宇美能いせのうみの 意斐志爾おひしに 波比母登富呂布いはひもとほる 志多陀美能しただみの 伊波比母登富理いはひもとほり 宇知弖志夜麻牟うちてしやまむ

また、次のように歌った。

神風の伊勢の海の沖に 波が寄せるように、
幾重にも重なって押し寄せよ。
白波のように、次々と押し寄せて、
我らは必ず討ち取ろう。

兄師木えしき撃ち弟師木おとしき御軍みいくさしましく疲れここにみうたよみたまひていは
多多那米弖たたなめて 伊那佐能いなさの夜麻能やまの 許能麻用母このまゆも 伊由岐いゆき麻毛良比まもらひ 多多加閇婆たたかへば 和禮波われは加比賀登母かひがとも 伊麻須氣爾いますけに許泥

また、兄師木(えしき)と弟師木(おとしのき)を攻めたとき、味方の軍勢がしばし疲れたので、こう歌った。

休みなく 稲の狭山のこの真中を斎き清めて守ってきたが、
戦いが続けば、我らはやはり疲れてしまう。
しまいには、上の丘にでも腰をかけて休みたいほどだ、
今は息が切れている。

かれその邇芸速日命にぎはやひのみことまいおもぶおいて天神あまつかみ御子みこまをさく天神あまつかみ御子みこ天降あまくだらしすと聞きしゆえ追ひまいくだすなは天津瑞あまつしるしたてまつりてもちつかまつらむかれ邇芸速日命にぎはやひのみこと登美毘古とみびこいも登美夜毘売とみやびめめあはせ子宇摩志麻遅命うましまぢのみこと生まむ   かれ如此このごと荒夫琉あらふる 言向ことむ平和やはして不伏ふさざる退しりぞはらしかるに畝火うねび白檮原かしはらみや天下あめのしたをさ

そこで、邇藝速日命(にぎはやひのみこと)が参上し、天神の御子に申し上げた。
「天神の御子が天降られたと聞き、あとを追って参上しました」
そして、天から授かったしるしの宝を献上して仕えた。
その後、邇藝速日命は、登美毘古(とみびこ)の妹である登美夜毘売(とみやびめ)を妻にし、宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)を生んだ。
こうして、このように言い聞かせて荒ぶる神々をなだめ、また従わない人々を退け、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)において天下を治めた。

皇后選定

かれ日向ひむかし時阿多之小椅あたのおばしきみいも阿比良比売あひらひめめあはし 生まれし子多芸志美美たきしみみみこと次に岐須美美きすみみみこと二柱ふたはしらいましきなりしかしてさら大后おほきさきさむ美人おみな求め時に大久米おほくめみことまを媛女をとめ有りこれ神の御子みこ神の御子みこ所以謂もちていはゆる三嶋湟咋みしまのみぞくひむすめ勢夜陀多良比売せやだたらひめなづ容姿すがたかたち麗美いとくはしかれ美和みわ大物主おほものぬしの神かなひてしかるに美人をみな大便くそ丹塗矢にぬりや大便くそみぞ流れ美人をみな富登ほと突きて  ここ美人をみなおどろきてしかるに立ちばし伊須須岐伎いすすきき  すなはまさおいて床辺とこへからむとしたちまちうるはし壮夫をとこと成りぬすなは美人をみなめあはし生まれし子の名富登多多良伊須須岐比売命ほとたたらいすすきひめのみことまた名づく比売多多良伊須気余理比売ひめたたらいすけよりひめかれ是以こもちて神の御子みこ

神武天皇(天神の御子)が日向にいた時、阿多(あた)の小椅君(おはしきみ)の妹で、名を阿比良比売(あひらひめ)という女性を妻に迎え、多芸志美美命(たぎしみみのみこと)、次に岐須美美命(きすみみのみこと)の二柱の子が生まれた。
しかし、その後さらに大后(おおきさき)にふさわしい美しい女性を求められた時、大久米命(おおくめのみこと)がこう申し上げた。
「この近くに媛女(ひめみこ)がおられます。この方こそ天神の御子と呼ばれる方です。天神の御子と呼ばれる理由はこうです。
三嶋湟咋(みしまのみずくい)の娘で、名を勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)といい、その容姿は非常に美しかった。そこで、美和の大物主神(おおものぬしのかみ)がその美しさに心を動かされ、その女性が大便をしようとした時、赤く塗った矢に姿を変え、大便を流す溝に流れ下り、その女性の陰部を突いた。
その女性は驚いて立ち上がって逃げ出したが、その矢を持ち帰って寝床のそばに置いたところ、忽然として立派な男となった。その男はその女性を妻にし、生まれた子を富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすずきひめのみこと)、またの名を比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)といった。
このような経緯から、天神の御子と呼ばれているのです」

於是こにおいてなな媛女をとめおいて高佐士野たかさじの 遊び行き伊須気余理比売いすきよりひめの中にかれ大久米命おほくめのみこと伊須気余理比売いすきよりひめしかるにもちおいて天皇にまをさきいは
夜麻登能やまとの 多加佐士怒袁たかさじのを 那那由久ななゆく 袁登賣杼母をとめども 多禮袁志摩加牟たれをしまかむ

こうして七人の媛女(ひめみこ)たちが、高佐士野(たかさじの)で遊んでおり、その中に伊須氣余理比売(いすけよりひめ)がいた。
そこで大久米命(おおくめのみこと)は、その伊須氣余理比売を見て、歌で神武天皇に申し上げた。

大和の高佐士野を行き来する七人の乙女たち、
いったい誰を妻にいたしましょうか

かれ伊須気余理比売いすきよりひめ媛女をとめさき立てりすなは天皇すめらみこと媛女をとめ見てしかるに御心みこころ伊須気余理比売いすきよりひめおいてもともさき立てるを知り歌もちこたたまは
加都賀都母かつがつも 伊夜佐岐陀弖流いやさきだてる 延袁斯麻加牟

すると伊須氣余理比売は、ほかの媛女たちの前に立った。そこで神武天皇は、その媛女たちをご覧になり、伊須氣余理比売が一番前に立っていることを知って歌で答えた。

とにもかくにも、
まず先立っている乙女を妻にしよう

かれ大久米命おおくめのみこと天皇すめらみことみこともち伊須気余理比売いすけよりひめしし大久米命おおくめのみことくる利目とめを見しかるにあやしと思ひ歌曰うたはく
阿米都都あめつつ 知杼理麻斯登登ちどりましとと 那杼佐祁流斗米などさけるとめ

そこで大久米命が、神武天皇の命を受けて伊須氣余理比売に告げたとき、伊須氣余理比売は大久米命の入れ墨のある目を見て不思議に思い、こう歌った。

天のように広い所を、千鳥が飛ぶように歩いてきたのに、
なぜ目を裂いているのですか

かれ大久米命おおくめのみこと答へ歌曰うたはく
袁登賣爾をとめに 多陀爾阿波牟登ただにあはむと 和加佐祁流斗米 わがさけるとめ

そこで大久米命は、こう歌って答えた。

乙女に、まっすぐ会おうと思って、
私は目を裂いたのです

かれ嬢子むすめまをさくこれつかまつらむ也 阿斯波良能あしはらの於是こにおいて伊須気余理比売命いすけよりひめのみこといへ狭井さいかは かみ天皇すめらみこと伊須気余理比売いすけよりひめもと幸行いでまし一宿ひとね御寝坐いねましきなり  のち伊須気余理比売いすけよりひめ宮の内に参入まいりし時 天皇御歌みうたひていは
志祁志岐袁夜邇しげしきをやに 須賀多多美すがたたみ 伊夜佐夜斯岐弖いやさやしきて 和賀布多理泥斯わがふたりねし

そこでその娘は、「お仕えいたします」と言った。
この伊須氣余理比売の家は、狭井川のほとりにあった。神武天皇は、その伊須氣余理比売のもとへ行き、一夜泊った。
のちに伊須氣余理比売が宮中へ参内したとき、神武天皇はこう歌った。

葦原の茂った川辺の家に、すがた畳を敷き重ねて、
私たちは二人で寝たのだったなあ

然而しかるゆえし之御子みこ日子八井ひこやいみこと神八井耳かむやいみみみこと神沼河耳かむぬなかはみみみこと名づく三柱

その阿礼におられた御子の名は、日子八井命(ひこやいのみこと)、次に神八井耳命(かむやいみみのみこと)、次に神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)、この三人であった。

当芸志美美命の反逆

かれ天皇すめらみことかむあがりましぬのちまま当芸志美美たぎしみみみこと嫡后おほきさき伊須気余理比売いすきよりひめめあはまさみたりおと殺さむしかるにはかりし御祖みおや伊須気余理比売いすきよりひめうれくるしみてしかるに歌以うたもち御子みこに知らむとうたよみいは
佐韋賀波用さいかはよ 久毛多知和多理くもたちわたり 宇泥備夜麻うねびやま 許能波佐夜藝奴このはさやぎぬ 加是布加牟登須かぜふかむとす

神武天皇が崩御されたのち、その異母兄の当芸志美美命(たぎしみみのみこと)が、嫡后である伊須氣余理比売(いすきよりひめ)を娶ろうとしたとき、その三人の弟たちを殺そうと企んだ。その御母である伊須氣余理比売は心を痛め、歌によって御子たちにその危機を知らせた。その歌はこうである。

狭井川のあたりに雲が立ちわたって、畝傍山の木々がざわめいている。
これは風が吹こうとしている前触れだ

またうたよみいは
宇泥備夜麻うねびやま 比流波久毛登韋ひるはくもとい 由布佐禮婆ゆふされば 加是布加牟登曾かぜふかむとぞ 許能波佐夜牙流このはさやげる

また歌って言った、

畝傍山に 昼は雲がかかり、夕方になれば
風が吹こうとして、木の葉がざわめくだろう

於是こにおいて御子みこ聞き知りてしかるに驚きてすなは当芸志美美たぎしみみ殺さむと為将まさにせし神沼河耳命かむぬなかはみみのみこと神八井耳命かむやいみみのみことまをさく那泥 みことつはもの持ちりてしかるに当芸志美美たぎしみみ殺さむかれつはもの持ちもちまさ殺さむ時手足 和那那岐弖わななきて 不得殺えころさずかれここおと神沼河耳命かむぬなかはみみのみことところちたりつはものひ取りりて当芸志美美たぎしみみ殺しきかれまた御名みなたたたて沼河耳ぬなかはみみの命みこと

そこで御子たちはそのことを聞き知って驚き、当芸志美美を殺そうとした。このとき神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)は兄の神八井耳命に言った。
「あなたが武器を持って入って、当芸志美美を殺してください」
そこで兄は武器を持って中に入り、殺そうとしたが、手足が震えてしまい、殺すことができなかった。そこで弟の神沼河耳命が、兄の持っていた武器を譲り受けて中に入り、当芸志美美を殺した。
このことから、彼は建沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと)とも呼ばれるようになった。

かれ神八井耳命かむやいみみのみことおと建沼河耳命たてぬなかはみみのみことゆづりていはあた不能殺えころさざりて汝命ながみことすであた得殺えころしき かれいへどもかみいたすこと不宜よろしからず上是このうへ汝命ながみこともちかみいた
神八井耳命かむやゐみみのみこと意富臣おほのおみ小子部連ちひさこべのむらじ坂合部連さかひべのむらじ火君ひのきみ大分君おほきだのきみ阿蘇君あそのきみ筑紫三家連つくしのみやけのむらじ雀部臣さざきべのおみ 雀部造さざきべのみやつこ 小長谷造をはつせのみやつこ都祁直つげのあたひ伊余国造いよのくにのみやつこ科野国造しなののくにのみやつこ道奧石城国造みちのくのいはきのくにのみやつこ 常道仲国造ひたちのなかのくにのみやつこ 長狭国造ながさのくにのみやつこ)伊勢船木直(いせのふなきのあたひ)尾張丹羽臣おはりのにはのおみ嶋田臣しまだのおみみおやなり神沼河耳命かみぬなかはみみのみこと天下あめのしたをさめたまふなり  

そこで神八井命は、弟の建沼河耳命に譲って言った。

「私は仇を殺すことができなかった。あなたはすでに仇を討った。
だから、私は兄であっても上に立つべきではない。
よって、あなたが上に立って天下を治めなさい。私はあなたを支える者として、忌人(いみびと)となってお仕えしよう」
このようにして、日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命の三人が天下を治めることになった。

おほよそ神倭伊波礼毘古かむやまといはれびこ天皇すめらみことおほみとし壹佰参拾漆歳ももちあまりみそぢあまりななとせ御陵みささき畝火山うねびのやま北方きたのへ白檮かし尾上をのへ

この神武天皇(神倭伊波礼毘古天皇、かむやまといわれびこのすめらみこと)の御年は、百三十七歳であった。
御陵(みはか)は畝火山(うねびやま)の北方、白檮(かし)尾の上にある。

綏靖天皇~開化天皇

綏靖天皇

神沼河耳命かむぬなかはみみのみこと葛城かつらぎ高岡宮たかをかのみや天下あめのしたをさなり天皇すめらみこと師木しき県主あがたぬし
をや

河俣毘売かはまたびめめあはれまし御子みこ師木津日子玉手見命しきつひこたまてみのみこと天皇すめらみこと御年みとし肆拾伍歳よそちあまりいつとせ御陵みささき衝田岡つきたのをかり也

綏靖天皇(神沼河耳命、かむぬなかわみみのみこと)は、葛城(かつらぎ)の高岡宮(たかおかのみや)において天下を治めた。
この天皇は、師木県主(しきのあがたぬし)の祖である河俣毘売(かわまたびめ)を娶り、師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)という一人の御子をもうけられた。
綏靖天皇の御年は四十五歳であった。御陵は衝田岡(つくだのおか)にある。

安寧天皇

師木津日子玉手見命しきつひこたまてみのみこと片塩かたしほ浮穴うきあなの宮天下あめのしたをさなり天皇すめらみこと河俣毘売かはまたひめ

 県主あがたぬし波延はえむすめ阿久斗比売あくとひめめあはれまし御子みこ常根津日子伊呂泥とねつひこいろねの命 次大倭日子鉏友おほやまとひこすきともみこと師木津日子しきつひこみこと天皇すめらみこと御子みこあは三柱みはしらうち大倭日子鉏友おほやまとひこすきともみこと天下あめのしたをさ

安寧天皇(師木津日子玉手見命、しきつひこたまてみのみこと)は、片塩(かたしお)の浮穴宮(うけあなのみや)において天下を治めた。
この天皇は、河俣毘売(かわまたびめ)の兄である県主(あがたぬし)波延(はえ)の娘・阿久斗比売(あくとひめ)を娶り、常根津日子伊呂泥命(とこねつひこいろねのみこと)、次に大倭日子鉏友命(おおやまとひこすきとも のみこと)、次に師木津日子命(しきつひこのみこと)という三人の御子をもうけた。
この三人の中で、大倭日子鉏友命が天下を治めた。

師木津日子命しきつひこのみこと二王ふたはしらのみこ一子孫ひとりのすえ伊賀いが須知すち稲置いなき那婆理なばり稲置いなき三野みの稲置いなきみおや
一子ひとりのみこ和知都美わちつみみこと淡道あはぢ御井みいみやかれみこ二女ふたりのむすめ有りいろね蝿伊呂泥はへいろね亦名またのな意富夜麻登久邇阿礼比売命おほやまとくにあれひめのみこといろどの名蝿伊呂杼はへいろどなり天皇すめらみこと御年みとし肆拾玖歲よそとせあまりここのとせ御陵みささき畝火山うねびのやま美富登みほとに在り

また、安寧天皇の子は二人おり、そのうちの一人、和知都美命(わちつみのみこと)は淡道(あわじ)の御井宮(みいのみや)に居られた。
この王には二人の娘があり、姉の名は蠅伊呂泥(はえいろね)、またの名を意富夜麻登久邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめのみこと)といい、妹の名は蠅伊呂杼(はえいろど)であった。
安寧天皇の御年は四十九歳であった。御陵は畝火山(うねびやま)の美富登(みふと)にある。

懿徳天皇

大倭日子鉏友命おほやまとひこすきとものみことかる境岡宮さかひのをかのみや天下あめのしたをさなり天皇すめらみこと師木県主しきのあがたぬしみおや賦登麻和訶比売命ふとまわかひめのみこと亦名またのな飯日比売命いひひひめのみことめあはれまし 御子みこ御真津日子訶恵志泥命みまつひこかえしねのみこと多芸志比古命たきしひこのみことかれ御真津日子訶恵志泥命みまつひこかえしねのみこと天下あめのしたをさなり当芸志比古命たきしひこのみこと
天皇すめらみこと御年みとし肆拾伍歳よそちあまりいつとせ御陵みささき畝火山うねびやま真名子谷上まなごのたにのへ

懿徳天皇(大倭日子鉏友命、おおやまとひこすきとものみこと)は、軽(かる)の境岡宮(さかいおかのみや)において天下を治めた。
この天皇は、師木県主(しきのあがたぬし)の祖・賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめのみこと、またの名を飯日比売命〈いひひめのみこと〉)を娶り、御子として御真津日子訶惠志泥命(みまつひこかえしねのみこと)、次に多藝志比古命(たぎしひこのみこと)をもうけた。
そして、この御真津日子訶惠志泥命が天下を治め、多藝志比古命はその弟である。
懿徳天皇の御年は四十五歳であった。御陵は畝火山(うねびやま)の真名子谷(まなごだに)の上にある。

孝昭天皇

御真津日子訶恵志泥みまつひこかえしねみこと葛城掖上宮かつらぎのわきのかみのみや天下あめのしたをさなり天皇すめらみこと尾張をはりむらじみおや奧津余曽おきつよそいも余曽多本毘売よそたほびめみことめあはれまし御子みこ天押帯日子あめおしたらしひこみこと大倭帯日子國押人おほやまとたらしひこくにおしひとみことかれおと帯日子國忍人たらしひこくにおしひとみこと天下あめのしたをさなり天押帯日子あめおしたらしひこみこと
天皇すめらみこと御年みとし玖拾参歳ここのそあまりみとせ御陵みささき掖上わきのかみ博多はかた山上やまのへ

孝昭天皇(御真津日子訶惠志泥命、みまつひこかえしねのみこと)は、葛城(かつらぎ)の掖上宮(わきがみのみや)において天下を治めた。
この天皇は、尾張連(おわりのむらじ)の祖の奥津余曾(おきつよそ)の妹で、名を余曾多本毘売命(よそたもとひめのみこと)という女性を娶り、御子として天押帯日子命(あめのおしたらしひこのみこと)、次に大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)をもうけた。
そして、この弟である帯日子国押人命が天下を治めた。兄は天押帯日子命である。
孝昭天皇は御年九十三歳で崩御された。御陵は掖上(わきがみ)の博多山(はかたやま)の上にある。

孝安天皇

大倭帯日子国押人おほやまとたらしひこくにおしみこと葛城かつらきむろ秋津嶋あきつしまみや天下あめのしたをさなり天皇すめらみことめひ忍鹿比売おしかひめみことめあはれまし御子みこ大吉備諸進おほきびのもろすみこと大倭根子日子賦斗邇おほやまとねこひこふとにみこと  かれ大倭根子日子賦斗邇おほやまとねこひこふとにみこと天下あめのしたをさなり天皇すめらみこと御年みとし壱佰弐拾参歳ももとせあまりはたとせあまりみとせ御陵みささき玉手たまて岡上をかのへ

孝安天皇(大倭帯日子国押人命、おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)は、葛城(かつらぎ)の室(むろ)の秋津嶋宮(あきつしまのみや)において天下を治めた。
この天皇は、姪の忍鹿比売命(おしかひめのみこと)を娶り、御子として大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと)、次に大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)をもうけた。
そして、大倭根子日子賦斗邇命が天下を治めた。
孝安天皇は御年百二十三歳で崩御された。御陵は玉手岡(たまでのおか)の上にある。

孝霊天皇

大倭根子日子賦斗邇おほやまとねこひこふとにみこと黒田くるた廬戸宮いほとのみや天下あめのしたをさなり天皇すめらのみこと十市とほち県主あがたぬしおや大目おほめむすめ細比売くはしひめみことめあはれまし御子みこ大倭根子日子国玖琉おほやまとねこひこくにくるみこと春日かすか千千速真若比売ちちはやまわかひめめあはしれまし御子みこ千千速比売ちちはやひめみこと意富夜麻登玖邇阿礼比売おほやまとくにあれひめみことみあわれまし御子みこ夜麻登登母母曽毘売やまととももそびめみこと日子刺肩別ひこさしかたわけみこと比古伊佐勢理毘古ひこいさせりびこみこと亦名またのな大吉備津日子おほきびつひこみこと倭飛羽矢若屋比売やまととびはやわかやひめ

孝霊天皇(大倭根子日子賦斗邇命、おおやまとねこひこふとにのみこと)は、黒田(くろだ)の廬戸宮(いおとのみや)において天下を治めた。
この天皇は、十市県主(とおちのあがたぬし)の祖の大目(おおめ)の娘、細比売命(ほそひめのみこと)を娶り、大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)をもうけた。
また、春日の千千速真若比売(ちちはやまわかひめ)を娶り、千千速比売命(ちちはやひめのみこと)をもうけた。
また、意富夜麻登玖邇阿禮比売命(おおやまとのくにあれひめのみこと)を娶り、夜麻登登母母曾比売命(やまととももそひめのみこと)、次に日子刺肩別命(ひこさすかたわけのみこと)、次に比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりびこのみこと、またの名を大吉備津日子命)、次に倭飛羽矢若屋比売(やまとひはやわかやひめ)をもうけた。

また(そ)阿礼比売あれひめみことおと蠅伊呂杼はへいろどめあわれまし御子みこ日子寤間ひこさめまみこと若日子建吉備津日子わかひこたけきびつひこみこと 天皇すめらみこと御子みこあは八柱やはしら 

また、その阿禮比売命の妹の蠅伊呂杼(はえいろど)を娶り、日子寤間命(ひこいねまのみこと)、次に若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)をもうけた。
この天皇の御子は、合わせて八人である。

かれ大倭根子日子国玖琉おほやまとねこひこくにくるみこと天下あめのしたをさむ也 大吉備津日子おほきびつひこみこと若建吉備津日子わかたけきびつひこみこと二柱ふたはしらあひ而於しかるにおき針間はりま氷河ひかはさき忌瓮いはひへしかる針間はりまみちくちもち言向ことむ吉備きびの国やはしきなりかれこの大吉備津日子おほきびつひこみこと者 次若日子建吉備津日子はの命者は 次日子寤間ひこさめまの命者次日子刺肩別ひこさしかたわけみこと天皇すめらみこと御年みとし壱佰陸歳ももとせあまりむとせにて御陵みささき片岡馬坂上かたをかのむまさかのへり也

ゆえに、大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)が天下を治めた。
大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)と若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)の二柱は共に、針間(はりま)の氷河(ひかわ)の前で、斎瓮(いわいべ)を据えて祭りを行い、針間を道口(みちのくち)として、言葉で吉備国を和らげ服属させた。
したがって、その順序としては、まず大吉備津日子命、次に若日子建吉備津日子命、次に日子寤間命(ひこいねまのみこと)、次に日子刺肩別命(ひこさすかたわけのみこと)である。
孝霊天皇の御年は百六歳であった。御陵は片岡の馬坂の上にある。

孝元天皇

大倭根子日子国玖琉命おほやまとねこひこくにくるのみことかる堺原宮さかひのはらのみや天下あめのしたをさなりこの天皇すめらみこと穂積ほづみおみおや内色許男命うつしこをのみこと いも 内色許売命うつしこめのみことめあはれまし御子みこ大毘古命おほびこのみこと少名日子建猪心命すくなひこたけいこころのみこと若倭根子日子大毘毘命わかやまとねこひこおほびびのみことまた内色許男命うつしこをのみことむすめ伊迦賀色許売命いかがしこめのみことめあわれまし御子みこ比古布都押之信命ひこふつおしのまことのみことまた河内青玉かふちのあをたまむすめ波邇夜須毘売はにやすびめめあわれまし御子みこ建波邇夜須毘古命たけはにやすびこのみこと 天皇すめらみこと御子みこあはせ五柱
かれ若倭根子日子大毘毘命わかやまとねこひこおほびびのみこと天下あめのしたをさなり大毘古命おほびこのみこと建沼河別命たけぬまかはわけ比古伊那許士別命

孝元天皇(大倭根子日子国玖琉命、おおやまとねこひこくにくるのみこと)は、軽(かる)の境原宮において天下を治められた。
この天皇は、穂積臣らの祖の内色許男命(うちしこおのみこと)の妹、内色許売命(うちしこめのみこと)を妃とし、大毘古命(おおひこのみこと)、次に少名日子建猪心命(すくなひこたけいこころのみこと)、次に若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)をお生みになった。
また、内色許男命の娘、伊賀迦色許売命(いがかしこめのみこと)を妃とし、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)をお生みになった。
さらに、河内国の青玉(あおたま)の娘、波邇夜須毘売(はにやすびめ)を妃とし、建波邇夜須毘古命(たけはにやすひこのみこと)をお生みになった。この天皇の御子は、あわせて五人である。
このうち、若倭根子日子大毘毘命が天下を治めた。その兄の大毘古命の子は、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)、次いで比古伊那許士別命(ひこいなこしわけのみこと)である。

比古布都押之信命ひこふつおしのまことのみこと尾張おはりむらじおや意富那毘おほなびいも葛城之高千那毘売かつらぎのたかちなびめめあわれまし子味師内宿祢うましうつのすくね また木国造きのくにのみやつこおや宇豆比古うづひこいも山下影日売やましたかげひめめあわれまし子建内宿祢

比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)は、尾張連(おわりのむらじ)らの祖の意富那毘(おおなび)の妹である葛城の高千那毘売(たかちなびめ)を妃とし、味師内宿禰(うましうちのすくね)をお生みになった。
また、紀国造(きのくにのみやつこ)の祖の宇豆比古(うずひこ)の妹である山下影日売(やましたのかげひめ)を妃とし、建内宿禰(たけうちのすくね)をお生みになった。

建内宿祢たけのうちのすくね子并あはせきゅう波多八代宿祢はたのやしろのすくねは次許勢小柄宿祢こせのをからのすくねは次蘇賀石河宿祢そがいしかはのすくねは次平群都久宿祢へぐりのつくのすくね平群へぐりおみ佐和良さわらおみ馬御樴うまみくひむらじおやなり木角宿祢きのつぬのすくねは次久米能摩伊刀比売くめのまいとひめ、次怒能伊呂比売ぬのいろひめ葛城長江曽都毘古かつらぎのながえそつびこまた若子宿祢わくごのすくね天皇すめらみこと御年みとし伍拾漆歳いとせあまりななとせ御陵みささき剣池つるぎのいけ中岡上なかのをかのへり也

この建内宿禰(たけうちのすくね)の子は、あわせて九人である。
波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)、次に許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)、次に蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね)、次に平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)、次に木角宿禰(きつののすくね)、次に久米能摩伊刀比売(くめのまいとのひめ)、次に怒能伊呂比売(ぬのいろひめ)、次に葛城長江曾都毘古(かつらぎのながえのそつひこ)、そして若子宿禰(わくこのすくね)である。
孝元天皇の御年は五十七歳であった。御陵は剣池(つるぎのいけ)の中の岡の上にある。

開化天皇

若倭根子日子大毘毘命わかやまとねこひこおほびびのみこと春日かすか伊邪河宮いざかはのみや天下あめのしたをさなり 天皇すめらみこと旦波たには大県主おほあがたぬし由碁理ゆごりむすめ竹野比売たけのひめめあは御子みこ比古由牟須美命ひこゆむすみのみこと れましまた庶母ままはは伊迦色許売命いかがしこめのみことめあわれまし御子みこ御真木入日子印恵命みまきいりひこいにゑのみこと御真津比売命みまつひめのみことまた丸邇臣わにのおみおや日子国意祁都命ひこくにおけつのみこといも意祁都比売命おけつひめのみことめあわれまし御子みこ日子坐王ひこいますのみこ また葛城之垂見宿祢かつらぎのたるみのすくねむすめ鸇比売わしひめめあわれまし御子みこ建豊波豆羅和気たけとよはづらわけ 天皇すめらみこと御子みこあは五柱いつはしら
かれ御真木入日子印恵命みまきいりひこいにえのみこと天下あめのしたをさなり比古由牟須美王ひこゆむすみのみこと大筒木垂根王おほつつきたりねのみこ讃岐垂根王さぬきたりねのみこ 二王ふたみこむすめ五柱いつはしらす也

開化天皇(若倭根子日子大毘毘命、わかやまとねこひこおほびびのみこと)は、春日の伊邪河宮(いざかわのみや)におられて、天下をお治めになった。
この天皇は、丹波(たんば)の大県主(おおあがたぬし)、名由碁理(なゆごり)の娘の竹野比売(たけのひめ)を娶り、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)をお生みになった。
また、庶母(継母)の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)を娶り、御真木入日子印惠命(みまきいりひこいにゑのみこと)、次に御真津比売命(みまつひめのみこと)をお生みになった。
また、丸邇臣(わにのおみ)の祖の日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)の妹の意祁都比売命(おけつひめのみこと)を娶り、日子坐王(ひこいますのみこ)をお生みになった。
また、葛城の垂見宿禰(たるみのすくね)の娘の鸇比売(さしひめ)を娶り、建豊波豆羅和気(たけとよはづらわけ)をお生みになった。
この天皇の御子は、あわせて五人である。
このうち、御真木入日子印惠命が天下をお治めになった。
その兄の比古由牟須美王の子は、大筒木垂根王(おほつつきたるねのみこ)、次に讃岐垂根王(さぬきたるねのみこ)である。この二人の娘は、あわせて五柱いる。

日子坐王ひこいますのみこ山代やましろ荏名津比売えなつひめ亦名またのな苅幡戸弁かりはたとべめあわれまし子大俣王おほまたのみこ小俣王をまたのみこ志夫美宿祢王しぶみのすくねのみこ また春日かすか建国勝戸売たけくにかつとめむすめ沙本さほ大闇見戸売おほくらみとめめあわれまし子沙本毘古王さほびこのみこ袁邪本王をざほのみこ沙本毘売命さほびめのみこと亦名またのな佐波遅比売さはちひめ 次室毘古王むろびこのみこ

次に、日子坐王(ひこいますのみこ)は、山代(やましろ)の荏名津比売(えなつひめ、またの名を苅幡戸辨〔かりはたとべ〕)を娶り、大俣王(おほまたのみこ)、次に小俣王(おまたのみこ)、次に志夫美宿禰王(しぶみのすくねのみこ)をお生みになった。
また、春日の建国勝戸売(たけくにかちとめ)の娘の沙本之大闇見戸売(さほのおほくらみとめ)を娶り、沙本毘古王(さほびこのみこ)、次に袁邪本王(おざほのみこ)、次に沙本毘売命(さほびめのみこと、またの名を佐波遅比売〔さはじひめ〕)、次に室毘古王(むろびこのみこ)をお生みになった。

又近淡海ちかつあふみ御上祝みかみのはふりもち伊都玖いつく 天之御影神あめのみかげのかみむすめ息長おきなが水依比売みづよりひめめあわれまし子丹波たには比古多多須美知能宇斯王ひこたたすみちのうしのみこ水之穂真若王みづのほのまわかのみこ神大根王かむおほねのみこ亦名またのな八爪入日子王やつめいりひこのきみ水穂五百依比売みづほのいほよりひめ御井津比売みいつひめおもおと袁祁都比売命をきつひめのみことめあわれまし子山代やましろ大筒木真若王おほつつきまわかのみこ比古意須王ひこおすのみこ伊理泥王いりねのみこ おほよそ日子坐王ひこいますのみこあはせて十一王

また、近淡海(ちかつおうみ、近江)の御上祝(みかみのはふり)、以伊都玖天(いづくあめ)の御影神(みかげのかみ)の娘の息長水依比売(おきながのみずよりひめ)を娶り、丹波比古多多須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)、次に水之穂真若王(みづのほまわかのみこ)、次に神大根王(かむおほねのみこ)、またの名を八瓜入日子王(やつりいりひこのみこ)、次に水穂五百依比売(みづほいほよりひめ)、次に御井津比売(みゐつひめ)をお生みになった。
また、その母(息長水依比売)の弟の袁祁都比売命(おけつひめのみこと)を娶り、山代之大筒木真若王(やましろのおほつつきまわかのみこ)、次に比古意須王(ひこおすのみこ)、次に伊理泥王(いりねのみこ)をお生みになった。
このように、日子坐王の御子はあわせて十一人である。

かれこのかみ大俣王おほまたのみこ子曙立王あけたつのみこ菟上王うなかみのみこ 曙立王あけたつのみこ菟上王うなかみのみこは 次小俣王こまたのみこは 次志夫美宿祢王しぶみのすくねのみこは 次沙本毘古王さほびこのみこは 次袁邪本王おざほのみこは 次室毘古王むろひこのみこ美知能宇志王みちのうしのみこ丹波たには河上かはかみ摩須郎女ますのいらつめめあわれまし子比婆須比売命ひばすひめのみこと真砥野比売命まとのひめのみこと弟比売命おとひめのみこと朝廷別王みかどわけのきみ 美知能宇斯王みちのうしのみこおと水穂真若王みづほのまわかのみこ神大根王かむおほねのみこ

そこで、兄である大俣王の子は、曙立王(あけたつのみこ)、次に菟上王(うなかみのみこ)である。この曙立王、菟上王、さらに小俣王(おまたのみこ)、志夫美宿禰王(しぶみのすくねのみこ)、沙本毘古王(さほびこのみこ)、袁邪本王(おざほのみこ)、室毘古王(むろびこのみこ)らが続く。
その美知能宇志王(みちのうしのみこ)は、丹波(たには)の河上(かわかみ)の摩須郎女(ますのいらつめ)を娶り、比婆須比売命(ひばすひめのみこと)、次に真砥野比売命(まとぬひめのみこと)、次に弟比売命(おとひめのみこと)、次に朝廷別王(みかどわけのみこ)をもうけた。
この朝廷別王(みかどわけのみこ)は、美知能宇志王の弟である水穂真若王(みずほのまわかのみこ)の子である。また、その次に神大根王(かむおおねのみこ)がいる。

山代之大筒木真若王やましろのおほつつきまわかのみこ同母弟いろど伊理泥王いりねのみこむすめ丹波能阿治佐波毘売たにはのあぢさはびめめあはれまし子迦邇米雷王かにめいかづちのみこ みこ丹波之遠津臣たにはのとほつおみむすめ高材比売たかきひめめあはれまし子息長宿祢王おきながのすくねのみこみこ葛城かつらぎ高額比売たかぬかひめめあはれまし子息長帯比売命おきながたらしひめのみこと虚空津比売命そらつひめのみこと息長日子王おきながひこのみこ

次に、山代の大筒木真若王(やましろの おおつつきの まわかのみこ)は、同母弟である伊理泥王(いりねのみこ)の娘の丹波能阿治佐波毘売(たにはの あじさはひめ)を妻とし、迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)をもうけた。
この迦邇米雷王は、丹波の遠津臣(とおつのおみ)の娘の高材比売(たかきひめ)を妻とし、息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)をもうけた。
この息長宿禰王は、葛城の高額比売(たかぬかひめ)を妻とし、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、次に虚空津比売命(そらつひめのみこと)、次に息長日子王(おきながのひこのみこ)をもうけた。

また息長宿祢王おきながのすくねのみこ河俣稲依毘売かはまたいなよりびめめあはれまし子大多牟坂王おほたむさかのみこ かみまをところ建豊波豆羅和気王たけとよなみはづらわけのみこ天皇すめらみこと御年みとし陸拾参歳むそとせあまりみとせ御陵みささき伊邪河之坂上いざかはのさかへり也

また、息長宿禰王は河俣稲依毘売(かわまたの いなよりひめ)を妻とし、大多牟坂王(おおたむさかのみこ)をもうけた。ここで言う建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ)とは、以上の人物である。
開化天皇は、御年六十三歳で崩御された。御陵は伊邪河(いざかわ)の坂の上にある。

 

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