斉物論篇 一
南郭子基、几に隠りて坐し、天を仰いで嘘す。塔焉として其の偶を喪るるに似たり。顔成子游、前に立侍し、曰く、何居ぞや、形は固より槁木の如くならしむべく、心は固より死灰の如くならしむべきか。今の几に隠れし者は、昔の几に隠れし者とは非ざるなりと。子基曰く、偃よ、亦た善からずや而のこれを問うこと。今者、吾れは我を喪る。汝之を知るか。汝は人籟を聞くも、未だ地籟を聞かず、汝は地籟を聞くも、未だ天籟を聞かざるかなと。 |
南郭子基は机にもたれて座り、空を仰いで溜め息を吐いた。茫然としてその肉体を忘れてしまったかのようだ。子基の弟子である顔成子游が、前に立って控えていたが、問いて言った、「どうかされたのでしょうか。体は枯れ木のようであり、心は冷えた灰のようです。机にもたれている今の姿は、これまでの様子とは異なっています」と。
子基が答えて言った、「偃よ、良い質問だな。今、私は自分の存在を忘れていたのだ。お前はこれが分かるか。お前は人が吹く笛は聞いたことがあっても、大地の笛は聞いたことがないだろうし、大地の笛を聞いたことがあっても、天の笛は聞いたことがないだろう」
子游曰く、敢えて其の方を問わんと。子基曰く、夫れ大塊の噫気は其の名を風と為す。是れ唯作こること無し。作これば則ち万窮怒号す。而は独に之の謬謬たるを聞かざるか。 |
子游が言った、「どうかそのことについて教えて下さい」と。子基が答えた、「大地が吐き出した息を風と呼んでいる。この風はいつも起こるわけではないが、起これば、あらゆる穴を大きく鳴らす。お前あの風の音を聞いたことがないのか。
山稜の畏隹たる、大木百囲の窮穴は、鼻に似、口に似、耳に似、枡に似、圏に似、臼に似、圭に似、汚に似たり。激ゆる者、高ぶもの者、叱る者、吸う者、叫ぶ者、豪ぶ者、深き音、咬き者あり。前なる者は于と唱え、随う者は隅と唱える。冷風は則ち小和し、飄風は則ち大和す。厲風済めば則ち衆窮も虚と為る。而独に之の調調たると之の刀刀たるを見ざるかと。 |
山の尾根にある大木の穴は、鼻のような、口のような、耳のような、枡のような、盃のような、臼のような、深い池のような、広い窪みのような様々なものがあり、風が吹きつけるのだ。吠えるような、呼ぶような、叱るような、吸い込むような、泣き叫ぶような、悲しげなもの。先の風が小さく鳴った後には、次の風が大きな音を立てる。小さな風は静かに鳴り、大きな風は激しく鳴る。大きな風が止むと、あらゆる穴は静かになる。お前は木々が風に吹かれて揺れ動いている様子を見たことがないか」
子游曰く、地籟は則ち衆窮是のみ、人籟は則ち比竹是のみ、敢えて天籟を問うと。子基曰く、夫れ吹くこと万にして同じからざるも、而も其の己れよりせしむ。咸く其の自ら取るなり。怒ます者は其れ誰ぞやと。 |
子游が言った、「大地の笛は様々な穴に響いている風の音で、人の笛は楽器が出す音であるが、天の笛のことを教えてください」と。子基が答えた、「吹き方は色々あり同じではないが、それらは自分で音を出しており、自分で音を選んでいる。音を出させる者はいったい誰なのか」
斉物論篇 二
大知は閑閑たり、小知は間間たり、大言は炎炎たり、小言は詹詹たり、小恐は瑞瑞たり。其の寝るやときは魂交わり、其の覚むるや形開き、与に接りて構を為し、日日に心を以て闘わしむ。縵なる者あり、豪なる者あり、密なる者あり。 |
大いなる知恵を持つ者は、ゆったりと穏やかである。小さな知恵を持つ者は、せかせかと落ち着きがない。大いなる言葉は堂々としているが、小さな言葉はおしゃべりでうるさい。小さな恐れはおどおどとする。寝れば夢にうなされて、目覚めれば体が落ち着かず、お互いに影響して揉め事を起こし、日毎に心の争いを繰り返す。大まかな心があり、険しい心があり、細やかな心がある。
其の発すること機括の若しとは、其の是非を司くるの謂いなり。其の留まること詛盟の如しとは、其の勝ちを守るの謂いなり。其の殺すること秋冬の如しとは、以て其の日日に消ゆるを言うなり。溺れて為す所は、之を復せしむべからず。其の厭がること緘の如しとは、以て其の老洫なるを言うなり。死に近づく心は、復た陽かしむるなし。 |
心を発するのが石弓を引くようだというのは、物事の是非を判断について言ったものだ。不動なことが誓約したようだというのは、自らの勝ちを守ることについて言ったものだ。萎んでいくのが秋冬のようだというのは、日毎に衰えてゆくことを言ったものだ。迷い溺れることは、これを元に戻すことはできず、心が覆われて閉じ込められたようだというのは、老いて動かせなくなったことを言ったものだ。死に近づく心は、蘇らせることができないのだ。
喜び怒り、哀しみ楽しみ、慮り嘆き、変い執れ、姚し佚にし、啓き態づくり、楽は虚より出て、蒸は菌を成す、日夜前に相い代わるも、而も其の萌す所を知るなし。 |
喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、思い悩み、嘆き、変化し、執着し、ゆったりしたり気ままになったり、態度を取り繕ったりする。音楽の響きが虚しさから湧き出るように、感情の熱気が次第に膨らんでいく。昼と夜とが入れ替わるように、人の心も常に移り変わっていくのに、その始まりがどこから生じたのか、誰も知ることはない。
已みなん、已みなん、旦暮に此れを得るは、其の由りて以て生ずる所か。彼に非ざれば我なく、我に非ざれば取る所なし。是れ亦た近し、而も其の為使する所を知らず。 |
もうやめよう。朝から晩まで、この心の動きを追いかけることが、果たして生きることなのだろうか。彼(外界の存在)がなければ我(自分)はなく、我がなければ何かを得ることもない。このように考えれば、近づいているとも言えるが、その背後にある働きを理解してはいない。
真宰有るが若きも、而も其の跡を得ず。行う可已だ真なるも、而も其の形を見ず、情は有れど形なし。百骸九激六蔵、供りて存す、吾れ誰れをか親しむことを為さん。汝皆之を説ぶか、其れ私有り。是くの如くんば、皆臣妾と為すこと有るか。 |
真の主人が存在しているようだが、その足跡を掴むことはできない。その働きは真実であるのに、目に見える形はなく、気持ちはあっても、形を持たない。身体には骨や筋肉、内臓が存在しているが、私は誰と親しむべきか。お前はすべてが自我によって動いていると考えるなら、それは偏った考えである。そのように考えるならば、全ては主人と従者の関係になる。
其れ臣妾は以て相い治むるに足らず。其れ逓いに君臣と相い為るか、其れ真君有り存す。求めて其の情を得ると得ざるとの如きは、其の真に益損することなし。 |
しかし、君と臣が役割を代わるものなら、真の君が存在しているというのか。本質を求めて、得るとか得られないとか言うことが、果たして真に何かの益や損を与えるだろうか。
一たび其の成形を受くれば、化せずして尽くるを待たん。物と相い刃い相靡わば、其の行き尽くすこと馳するが如くして、之を能く止むるなし、亦悲しからずや。終身役役として其の成功を見ず、爾然として疲役して其の帰する所を知らず。哀しまざるべけんや。 |
人は一たびこの肉体を受けたからには、変わることなく尽き果てるのを待つしかない。外の物とぶつかり合い、引きずられて損なわれるならば、その行き着く先は、まるで駆け出して止まらないように、誰にもそれを止めることはできない。なんと悲しいことではないか。人生を通じて忙しく働き続けて、けっしてその成果を見ることがなく、疲れ切って、どこに帰り着くのかも分からない。それを悲しまないでいられようか。
人は之を死せずと謂うも、奚の益あらん。其の形化して其の心も之と与に然り。大哀と謂わざるべけんや。人の生や、固より是くの若く茫きか、其れ我独り茫いて人亦た茫わざる者あるか。 |
たとえ人が死なないと言ったところで、いったい何の意味があるのだろう。この身体が朽ちるとき、心もともに変わってしまう。これを大いなる悲しみと言えるだろう。人の生は、このように茫然としているものなのか。それとも、私だけがこのように茫然としていて、他の人にはそうでない者もいるのだろうか。
夫れ其の成心に随いて之を師と為さば、誰か独り且た師なからん。奚ぞ必ずしも代を知りて心に自ら取る者のみ之を有らん。愚者も与に之有り。未だ心に成さずして是非有すは、是れ今日越に適きて昔至るなり。是れ有ること無きを以て有りと為す。有ること無きを有りと為さば、神禹有りと雖も且お知ること能わず。吾れ独り且た奈何せん。 |
人が自然な心(成心)に従って物事を判断するなら、自分だけの師を持つことになる。どうして、世の移り変わりを理解し、自分の力で真理を掴み取れる者だけがそれを持つのだろうか。愚かな者でもまた同じように自然な心を持っている。自然な心に従わずに是非を判断をしてしまうのは、まるで、今日越国に向かって旅立ったのに、昨日に到着していると言うようなものだ。これは、無いものを有ると言っているようなものだ。無いものを有ると言うのは、聖王禹(う)であってもどうにもならない。ましてや私に何ができるだろうか。
斉物論篇 三
夫れ言は吹には非ず。言う者には言有り。其の言う所の者、特に未だ定まらず、果たして言有るか、其れ未だ嘗て言有らざるか。其れ以て毅の音に異なりと為すも、亦弁あるか。 |
言葉は風のような無意味なものではない。言葉には意味がある。ただ、その言葉の意味する内容が定かではないならば、果たして言葉があると言えるのか、それとも実は何もないのか。空気の音とは違うものだとしても、そこに区別があるのだろうか。
道は悪に隠りて真偽有し、言は悪に隠りて是非有る。道は悪くに往きて存せざらん、言は悪くに存すとして可なざらん。道は小成に隠り、言は栄華に隠る。故に儒墨の是非あり。以て其の非とする所を是として其の是とする所を非とす。其の非とする所を是として其の是とする所を非とせんと欲するは、則ち明を以うるに若く莫し。 |
道は何に依拠として真偽を持ち、言葉は何に依拠として是非を持つのか。道はどこにでも存在しており、言葉はどこにでも存在している。道の真偽は小さな成果に囚われて見失われ、言葉の是非は虚栄心に囚われて見失われる。だから、儒家や墨家のように互いに是非を争うのである。相手が非とする所を是であると言い、是とする所を非であると言う。そのように互いを否定し合うのなら、誰も真実を知ることはできない。
物は彼に非ざるは無く、物は是に非ざるは無し。自ら彼とすれば則ち見えず、自ら知ることは則ち之を知る。故に曰く、彼は是より出で、是も亦彼に因ると。彼と是と方に生ずるの説なり。然りと雖も方に死し、方び死にて方び生ず。方に可ならば方び不可、方に不可ならば方に可なり。是に因り非に因り、非に因り是に因る。是を以て聖人は由らずして之を天に照す、亦是に因るのみ。 |
この世界はあれ(彼)でないものはなく、これ(是)でないものはない。自分があれ(彼)だと思い込めば、それは見えなくなり、自分が知っている思えば、それは知ることができる。だから、あれ(彼)はこれ(是)から生まれ、これ(是)もあれ(彼)により成り立っている。あれとこれはともに生まれる関係にあり、ともに死ぬ関係でもある。可でもあり不可でもある。不可でもあり可でもある。是(正しい)により非(誤り)が生じ、非(誤り)により是(正しい)が生じる。だから聖人は、偏見的な分別に頼らずに、天(自然)に照らして見る。
是も亦彼なり、彼も亦是なり。彼も亦一是非、此も亦一是非。果たして彼是と有るか、果たして彼是と無きか。彼と是と其の偶を得る莫き、之を道枢と謂う。枢にして始めて其の環中を得て、以て無窮に応ず。是も亦一無窮、非も亦一無窮なり。故に曰く、明を以うるに若く莫しと。 |
これ(是)もあれ(彼)であり、あれ(彼)もまたこれ(是)である。あれも一つの是非であり、これもまた一つの是非である。果たしてそもそもあれ(彼)とこれ(是)の区別はあるのか、それとも区別はないのか。あれとこれとでその対立を生じることがない、これを道枢(どうすう)という。その枢(軸)があってはじめてそれに収まって、い真理へと対応することになる。是もまた一つの無限であり、非もまた一つの無限である。だから、真理を知ることに及ぶものはないと。
斉物論篇 四
指を以て指の指に非ざるを喩すは、指に非ざるものを以て指の指に非ざるを喩すには若かざるなり。馬を以て馬の馬に非ざるを喩すは、馬に非ざるものを以て馬の馬に非ざるを喩すには若かざるなり。天地も一指なり。万物も一馬なり。 |
指を用いて、これが指ではないことを明らかにするのは、指ではないものを用いて、これが指ではないことを明らかにすることに及ばない。馬を用いて、これが馬ではないことを明らかにするのは、馬ではないものを用いて、これが馬ではないことを明らかにすることに及ばない。つまり、天地は一つの指であり、万物は一ひとつの馬である。
可を可とし、不可を不可とす。道は之を行きて成り、物は之に謂いて然り。悪くにか然らずとせん、然らざるを然らずとす。悪くにか可とせん、可を可とす。悪くにか不可とせん、不可を不可とす。物には固より然る所有り、物は固より可なる所有り。物として然らざるは無し。物として可ならざるは無し。 |
よいことを可として、よくないことを不可とする。人は道に従って、そのように見えるときにそう判断する。何をもってそれを可とするのか、可だと皆が言うものを可としているだけだ。何をもってそれを不可とするのか、不可と皆が言うものを不可としているだけだ。全ての物には、元々そうである(然る)という面があり、全ての物には、元々よいという面がある。そうでない(然らざる)ものなど、本当は存在しない。よくない(不可)ものなど、本当は存在しない。
故に是が為に、廷と柱、厲と西施とを挙ぐれば、恢危譎怪なるも、道は通じて一と為す。其の分かるるは成るなり。其の成るは毀わるるなり。凡そ物は成と毀わるると無く、復た通じて一つ為り。 |
だから、廷(醜女)と柱(美しい女)、厲(醜い人)と西施(絶世の美女)を比べても、それらがどんなに異なって見えても、道(真理)の観点から見れば、すべては同じ一つのものにすぎない。物事が区別されるのは、それが成立したからである。しかし、成立したものは同時に壊れることでもある。全てのものは成ることも壊れることもなく、一つの実在である。
唯だ達者のみ通じて一つ為るを知り、是の為に用いずして諸れを庸に寓す。庸なる者は用なり、用なる者は通なり。通なる者は得るなり。適得にして幾くす。是に因る已。已にして其の然るを知らず、之を道と謂う。 |
ただ、真理を悟った者だけが、万物が一つであることを知り、人間の偏見で分けずに、全てをありのままに見ることである。普通とは有用であるということで、有用とは通じていることであり、通じているとは得られるということである。あるがままに得て、自然にうまく事が運ぶ。それだけのことでありながら、なぜそうなるのかを知ることもない。それを道(タオ)という。
神明を労して一を為して、其の同じきを知らず、之を朝三と謂う。何をか朝三と謂う。曰く、狙公、茅を賦して、朝は三つ暮に四つにせむと曰うに、衆狙皆怒れり。然らば則ち、朝は四つ暮には三つにせむと曰うに、衆狙皆悦べり。名実未だ虧けずして喜怒用を為す。亦だ是に因るのみ。是を以て聖人之を和するに是非を以て天鈞に休う。是を之両行と謂う。 |
苦労して区別しようとし、それが同じであることを知らない。これを朝三(ちょうさん)という。朝三とは何か。ある所に猿使いがいて、猿に木の実を与えた。朝に三つ、夕方に四つずつやろうと言うと、猿たちはみんな怒った。それならば、朝は四つ、夕方に三つやろうと言うと、猿たちはみんな喜んだのである。どちらも木の実の数は同じなのに、喜怒が生じてしまう。形式に囚われているにすぎない。だから聖人は、是非という価値判断に囚われず、天の調和を求める。これを両行(りょうこう)というのである。
古の人、其の知至る所有り。悪くにか至る。以て未だ始めより物有らずと為す者有り。至れり尽くせり、加うべからず。其の次は以て物有りと為す、而も未だ始めより封有らざるなり。其の次は以て封有りと為す、而も未だ始めより是非有らざるなり。是非の彰かなるや道の虧く所以なり。道の虧く所以は愛の成る所以なり。果たして且も成ると虧くると有るか、果たして且成ると虧くると無きか。 |
昔の人は、最上の知恵に至った者がいた。では、その知恵はどこまで至ったのか。その者は、初めは万物(道)が存在しないと考えた。それは完全に真理に達しており、それ以上に何かを加える余地はない。次に深い知恵を持った者は、万物は存在するが、区別はないと考えた。その次の者は、万物には区別はあるが、是非(善悪)は存在しないと考えた。是非が明らかになることは、道(タオ)が損なわれたことを意味する。道が損なわれると、愛憎が生じる。だが、本当に成ることと損なわれることに区別はあるのか、それとも区別はないのか。
成ると虧くると有るは、故ち昭氏の琴を鼓するなり。成ると虧くると無きは、故ち昭氏の琴を鼓せざるなり。昭文の琴を鼓くと、師曠の策を枝つるや、恵子の梧に拠るや、三子の知は幾くすか、皆其の盛んなる者ものなり。故に之を末世に載せ、唯其の之を好むや、以て彼に異なる。 |
成ることと損なわれることがあるとするのは、昭氏が琴を奏でるようなものである。成ることも損なわれることもないとするのは、昭氏が琴を奏でないようなものである。昭氏が琴を奏で、師曠(しこう)が瑟の音を調整し、恵子が思想を論じるように、三人の知恵は非常に優れていた。だから彼らの言葉は後世まで伝えられている。それは人々が彼らを好み、彼らと自分たちとの差異を意識したからだ。
其の之を好みて、以て之を明らかにせん欲す。彼明らかにす所に非ざるに、之を明らかにせんとす。故に堅白の昧きを以て終り、其の子また文の綸を以て終え、身を終わるまで成る無し。是の若くにして成ると謂うべきか、我と雖も亦成るなり。是の若くにして成ると謂うべからざるか、物と我と成る無きなし。 |
人は道理を好み、何とか明らかにしようとする。しかし、明らかにできないものを、無理に明らかにしようとするのである。だから、堅白論(けんぱくろん)のような議論に終始し、その弟子もまた無意味な議論に終わり、いずれも道を成し遂げることができなかった。このような状態で成ったと言えるだろうか。言えるなら、凡俗な私でさえ成ると言えるだろう。もしこのような状態で成ったと言ってはいけないのなら、この世界のあらゆる物も私も、何一つ成るということはないだろう。
是の故に滑疑の耀きは、聖人の図る所なり。是が為に用いずして諸を庸に寓す。此れを明を以うと謂う。 |
だから、曖昧で確定できない真理の光こそが、聖人が思案するところなのである。このために是非善悪の分別を用いずに、一切の存在が常にそのままある自然に依拠するのだ。この不明の明(是非分別の放棄)こそが、真の明(知恵)というべきものである。
斉物論篇 五
今且れ此に言あり。其の是と類するや其の是と類せざるやを知らず。類すると類せざると、相与に類を為せば、則ち彼と以て異なること無し。然りと雖も、請う嘗みに之を言わん。 |
今ここに一つの言葉を挙げてみよう。それが正しいと同類なのか、正しくないと同類なのか分からない。だが、正しいと正しくないとが、同類な部分があるとしたら、それは彼(対立するもの)とは異ならないことになる。そうであっても、ひとまずそれについて語ってみよう。
始めなる者有り。未だ始めより始め有らざる者有り。未だ始めより、夫の未だ始めより始め有らずる者有り。有なる者有り。無なる者有り。未だ始めより無有らず者有り。未だ始めより、夫の未だ始めより無有らず者有らざる者有り。 |
始めという概念がある。始めから始めはないという「無始」の概念がある。更に、「無始」の概念を否定する「無無始」の概念がある。「有」という概念があり、「無」という概念がある。始めから無はないという「無無」の概念がある。更に、「無無」の概念を否定する「無無無」の概念がある。
俄かにして有無あり。而も未だ有無の果たして孰れか有にして孰れか無なるを知らず。今我れ則ち已に謂う有り。而も未だ吾が謂う所の其の果たして謂う有りや其の果たして謂う無きやを知らず。 |
突然「有」と「無」が現れた。しかし、どちらが「有」でどちらが「無」なのか分からない。今私は「有る」と言おうとする。だが、それが本当に「有る」のか、それとも実は「無い」のか、私には分からない。
天下に秋豪の末より大なるは莫く、大山も小と為す。殤子より寿なるは莫く、彭祖を夭と為す。天地も我と並んで生じ、万物も我と一つなり。既已に一なり、且言有るを得んや。既已に一たり、且言無きを得んや。 |
天下に毛の先よりも大きなものはなく、大山さえも小さいものになる。早死にした子供よりも寿命が長いものはなく、彭祖さえも寿命が短いものとなる。天地は私と同時に生まれ、万物も私と一体である。すでに万物が一つであるならば、「一」という言葉があると言えるだろうか。すでに一つであるならば、「一」という言葉がないと言えるだろうか。
一と言とは二と為し、二と一とは三と為す。此れより以往は巧歴も得る能わず。而るを況んや其の凡をや。故に無より有に適きて以て三に至る。而るを況んや有より有に適くをや。適くこと無く是に因るのみ。 |
「一」について語れば、それは「二」となる。「二」と「一」とを合わせれば「三」となる。「三」以上については、どんな技巧をもってしても数え尽くすことはできない。まして我々では数えることなどできない。だから、無(何もない状態)から有(存在)へと向かって「三」に至ったのなら、まして有から有に向かうのなら限りがない。本来、向かうこともなく、絶対的な一の道に拠るだけである。
斉物論篇 六
夫れ道は、未だ始めより封有らず。言は未だ始めより常有らず。是れが為にして畛有り。請う其の畛を言わん。左あり右あり、倫有り義有り、分有り辯有り、競有り争有り。此を之れ八徳と謂う。 |
そもそも道(タオ)には初めから区別は存在しなかった。言葉にも初めから定まった意味は存在しなかった。そこに区別が生まれたのである。では、その区別とは何か。左と右があり、倫理と正義があり、区別と弁論があり、競争と対立がある。これを八徳という。
六合の外は聖人は存して論ぜず、六合の内は聖人は論ずるも議せず、春秋の世経・先王の志は、聖人は議するも辯せず。故れ分かつとは分かたざる有り、辯ずるとは辯ぜざる有り。曰く、何ぞや。聖人は之を懐にし、衆人は之を辯じて以て相示す。故に曰く、辯ずるとは見ざる有りと。 |
宇宙(六合)の外については、聖人はそれが存在しても論じない。宇宙の内については、聖人は論じても弁じない。春秋の書物では、聖人は論じるが弁じないのである。それはどういうことなのか。聖人は物事を心の中にそのまま懐き、衆人はそれを弁じ、他者に示そうとする。だからこそ、弁じることは、必ずしも真理を見通していないのである。
斉物論篇 七
夫れ大道は称せず、大弁は言わず、大仁は不仁、大廉は謙ならず、大勇は損なわず。道は昭かなれば而ち道ならず、言は辯ずれば而ち及ばず、仁は常なれば而ち成らず、廉は清なれば而ち信ならず、勇は損なえば而ち成らず。五者は圓にして而ち方に向うに幾し。 |
そもそも、大道(本当の道)は称賛されるものではなく、大弁(本当の弁舌)は多くを語らず、大仁(本当の仁)は仁に見えず、大廉(真の謙虚さ)は謙虚に見えず、大勇(真の勇気)は無謀ではない。道を明らかにすると、それは本当の道ではない。言葉も多弁になると、真理には到達できない。仁がありふれれば、それは本物の仁ではない。謙虚さも度が過ぎると、それは信用できない。勇気も人を損なえば、それは真の勇気ではない。この五つは、円があらゆる角を包み込むようなものに近い。
故に知は其の知らざる所に止まるに至る。孰か不言の弁、不道の道を知らん。若し能く知ること有らば、此れを之れ天府と謂わん。焉注げども満たず、焉に酌めども竭きず。而も其の由りて来る所を知らず。此れを之れ葆光と謂う。 |
だから真の知は、知ることのできないところに留まるのである。いったい誰が、語らぬことで説得し、道とされていない道を知っているのか。もしそれができるなら、天府(天の宝庫)というべきだろう。これに注いでも満ちることはなく、酌んでも尽きることがない。しかもそれがどこに拠って来るのか分からない。これを葆光(宝の光)という。
斉物論篇 八
故れ昔は堯・舜に問いて曰く、我れ宗と膾と胥敖とを伐たんと欲す。南面して釈然たらず。其の故何ぞやと。舜曰く、夫の三子は、猶お蓬艾の間に存す。若の釈然たらざるは何ぞや。昔十日並び出て万物皆照さる。而るを況んや徳の日よりも進れる者をやと。 |
だから昔、堯(ぎょう)や舜(しゅん)に尋ねて言った。私は宗(すう)、膾(かい)、胥敖(こつごう)を討とうと思う。しかし、君主として座しても、釈然としないのはなぜだろう。舜は答えた。あの三つの国は、未開の地にあります。あなたが釈然としないのはなぜなのでしょうか。昔、十個の太陽が空に出たときに、万物は照らされたといいます。ましてや、王の徳が太陽よりも劣っていることがあるでしょうか。
斉物論篇 九
齧欠、王倪に問いて曰く、子は物の同じく是なる所を知るかと。曰く、吾れ悪んぞ之を知らんと。子は子の知らざる所を知るか。曰く、吾れ悪んぞ之を知らんと。然らば則ち物は知ること無きか。曰く、吾れ悪んぞ之を知らん。然りと嘗試みに之を言わん。庸拒ぞ吾が謂う所の知の不知に非ざるを知らん。庸拒ぞ吾れの謂う所の不知の知に非ざるを知らん。 |
齧欠(げっけつ)が王倪(おうげい)に尋ねて言った。「あなたは、万物が等しく是(正しい)であることを知っていますか」
王倪は答えて言った。「私がどうしてそれを知っていると言えるだろうか」
「では、あなたは自分が知らないということを知っているのですか」
「それについても、私がどうしてそれを知っていると言えるだろうか」
「では、人は何も知ることができないというのですか」
「それすら、私にはどうして言い切れるだろうか。しかし試しにそれについて少し話してみよう。私が知っているとしたものが、本当に知らないことではないと、どうして言えるだろうか。私が知らないとしたものが、本当に知っていることではないと、どうして言えるだろうか」
且つ吾れ嘗試みに汝に問わん。民は湿に寝れば則ち腰疾して偏死するも、鰌は然らんや。木に処れば則ち惴慄恂懼するも、猿猴は然らんや。三者孰れか正処を知る。民は芻豢を食らい、麋鹿は薦を食い、蜀且は帯を甘しとし、鴟烏は鼠を嗜む。四者孰れか正味を知る。猿は雌と為し、麋は鹿と交わり、鰌は魚と游ぶ。 |
では、今度は私のほうからあなたに尋ねてみよう。人間は湿った場所に寝れば、腰の病気や半身不随などを患うが、鰌(どじょう)はどうだろうか。人間が木の上に住もうとすれば、震えてしまうが、猿はどうだろうか。この三者のうち、誰が正しい居場所を知っていると言えるだろうか。人間は、家畜を食べるが、鹿は草を食べ、ムカデは蛇を美味しいと食べ、鴟(とび)は鼠を好んで食べる。この四者のうち、誰が本当に正しい味覚を知っているだろうか。猿は別種の猿とつがいになり、鹿は別種の鹿と交わり、鰌は他の魚と戯れる。
毛ショウと麗姫は人の美とする所なるも、魚は之を見て深く入り、鳥は之を見て高く飛び、麋鹿は之を見て決して驟る。四者孰れか天下の正色を知らん。我より之を観れば、仁義の端、是非の塗は、樊然として狡乱す。吾れ悪んぞ能く其の辯を知らん。 |
毛嬙(もうしょう)や麗姫(れいき)は、人が絶世の美人とする女性である。しかし、彼女たちを見ると魚は水の深く隠れ、鳥は空高く飛び去り、鹿は走り去ってしまう。この四者で、誰がこの世の美しさを知っているのだろうか。私から見れば、仁義の境目や、是非(善悪)の区別などは、複雑で混乱しているように見える。私はどうしてそれらを知ることができようか。
斉物論篇 十
齧欠曰く、子は利害を知らず、則ち至人は固より利害を知らざるかと。王倪曰く、至人は神なり。大沢焚くとも熱く能わず、河漢凍るとも、かれを寒からしむる能わず、疾雷の山を破り飄風の海を振かすも驚かす能ず。然くの若き者は雲気に乗り日月に騎り、四海の外に遊び、死生も己を変えることなし。而るに況んや利害の端をやと。 |
齧欠(げっけつ)が言った。
「あなた(王倪)は、利害を知らないと言うが、それでは至人(悟りを得た人)というのは、もともと利害を知らないものなのか?」
王倪(おうげい)は答えた。
「至人は神のような存在である。たとえ大きな沼が焼けても、それで焼かれることはなく、大きな河が凍っても、それで凍えることはない。激しい雷が山を砕き、暴風が海を揺らしても、彼を驚かせることはできない。そのような人物は、雲に乗り、太陽や月にまたがって、四海の外を自由に旅する。生や死すら彼の心を乱すことはない。ましてや、利害のような些細なことが、彼に影響することはないのだ」。
斉物論篇 十一
瞿鵲子、長梧子に問うて曰く、吾れ諸を夫子に聞けり。聖人は務に従事せず、利を就かず、害を違けず、求めを喜ばず、道に縁らず、謂う無くして謂う有り、謂う有りて謂う無く、塵垢の外で遊ぶと。夫子は以て孟浪の言と為すも、我は以て妙道の行と為す。吾君は以て奚若と為すと。 |
瞿鵲子(くじゃくし)が長梧子(ちょうごし)に尋ねて言った。
「私は以前、次のように聞いたことがある。聖人は、世俗の仕事に従事せず、利益を求めず、害を避けようとせず、願いの成就を喜びとせず、道に従うこともしない。何も言わないとしつつも、何かを語っているし、語っているようで、何も語っていない。その心は、世俗の外で自由に遊んでいるかのようだ。このような話をでたらめな言葉だと言ったが、私はむしろ奥深い道だと受け取った。あなたはどう思われますか」
長梧子曰く、是れ黄帝の聴いて惑う所なり。而るに丘や、何ぞ以て之を知るに足らん。且つ汝も亦た大だ早計なり。卵を見て時夜を求め、弾を見て鳥炙を求む。予れ嘗に汝の為に之を妄言せん。汝以て之を妄聴せよ。 |
長梧子(ちょうごし)が言った。「それは、あの黄帝(こうてい)ですら惑った所である。それなのに、あなたがどうしてそれを理解できようか。またあなたも非常に早計である。卵に朝の到来を告げることを求め、鳥を撃つ弾を見て焼き鳥を求めるようなものだ。あえて私があなたのために、妄言に近いものになるが話そう。あなたも、この話を適当に聞き流すがよい」
日月に旁び、宇宙を挟み、其の吻合を為して、其の滑昏に置せ、隷を以て相尊ぶ。衆人は役役たるも、聖人は愚屯、万歳に参りて成純に一たり、万物尽く然りとし、而して是を以て相蘊む。 |
聖人は太陽や月と並ぶ存在で、宇宙を小脇に挟み、宇宙と一体化して、何のこだわりも持たず、自然のままに委ね、上や下を区別せず、互いに敬い合う。凡人たちがあせくさ働いていても、聖人は愚かで鈍そうに見える。聖人は永遠の時間を通じて、一つの純粋な存在で、万物すべてそのまま受け入れ、すべてを包み込んでいる」。
予れ悪んぞ生を説ぶことの惑いに非ざるを知らんや。予悪んぞ死を悪むことの弱喪して帰るを知らざる者に非ざるを知らんや。麗姫は艾の封人の子なり。晋国の始めて之を得るや、涕泣して襟を沾せり。其の王の所に至り、王と筐床を同にし、芻豢を食うに及びて、而る後に其の泣きしを悔ゆ。予れ悪くんぞ夫の死者の其の始めの生を求めしを悔いざるを知らんや。 |
「私はどうして、人間が生を喜ぶことを疑わないのか分からない。どうして、死を嫌うのか、若くして故郷を忘れてさすらって、帰る場所も知らないのか分からない。麗姫(りき)という美女も、もとは田舎の封人(防人)の娘にすぎなかった。晋の国が彼女を迎えたとき、彼女は泣いて襟を濡らしていた。しかし、王の所に着いて、王と寝床を共にし、美味しいご馳走を食べると、その後は泣いたことを後悔したのである。ならば、どうして死者が死ぬ前に、生に執着したことを後悔しないと分かるのだろうか」
夢に酒を飲む者は、旦に哭泣し、夢に哭泣する者は、旦に田猟す。其の夢みるに方り、其の夢なるを知らず。夢の中に又其の夢を占い、覚めて後に其の夢なるを知る。且つ大覚有りて、而る後に此れ其の大夢なるを知る。 |
夢で酒を飲んで楽しんだ者は、朝になると泣き悲しみ、逆に夢で泣いた者は、朝になると野に出て狩りをしている。夢を見ている最中は、それが夢であることに気が付かない。夢の中でその夢を占っても、目が覚めて初めて、それが夢だったと知る。さらに、大いなる目覚め(悟り)に至って、ようやくそれまでが大きな夢であっことを知る。
而るに愚者は自ら以て覚めたりと為し、窃窃然として之を知る、君となし牧たらんかと。固なるかな。丘と汝と皆夢なり。予の汝を夢を謂うも亦夢なり。是れ其の言や、其の名を弔詭と為す。万世の後にして、一たび大聖の其の解を知る者に遇うも、是れ旦暮に之に遇うなり。 |
ところが、愚かな者は自分が目覚めていると思い込み、小賢しい知恵を用いて人生を分かった気になって、君主になろうとか、人民を治めようとかする。頑迷なものである。
私もあなたも、皆夢の中にいるのだ。あなたを夢だと言っている私もまた夢なのである。このような言葉は、詭弁のように思われるだろう。しかし、もし長い年月の中で、一人でもこの意味を理解できる聖人に出会えたなら、それがいつであろうが、実に得がたい幸運である。
既に我と若として弁ぜしむるに、若我に勝ち、我の若に勝たざれば、若果たして是にして我は果たして非なるか。我の若に勝ち、若の我に勝たざれば、我は果たして是にして而果たして非なるか。其の或いは是にして其の或いは非なるか。其の倶に是にして其の倶に非なるか。我と若と相知る能わず。則ち人固より其の暗闇を受けん。 |
あなたと私とが議論して、あなたが私に勝って、私があなたに負けたなら、本当にあなたが正しくて、私は間違っているのだろうか。逆に、私があなたに勝って、あなたが私に負けたなら、本当に私が正しくて、あなたが間違っているのだろうか。あるいは、あなたと私のどちらか一方だけが正しくて、どちらか一方は間違っているのだろうか。あるいは二人とも正しいか、または二人ともに間違っているのだろうか。私とあなたとで互いに真実を知ることができないなら、人は結局、自分の無知(暗闇)を受け入れざるを得ないのだ。
吾れ誰にか之を正さしめん。若に同じき者をして之を正しむれば、既に若と同じ、悪んぞ能く之を正さん。我に同じき者をして之を正さしめんか。既に我と同じければ、悪んぞ能く之を正さん。我と若とに異なる者をして之を正さしめんか。既に我と若と異なれば、悪ぞ能く之を正さん。我と若とに同じき者をして之を正さしめんか。既に我と若とに同じければ、悪ぞ能く之を正さん。然らば則ち我と若と人と、倶に相知る能わず。而んぞ彼を待たんや。 |
私は誰に正しさを判断させればよいのだろうか。あなたと同じ意見の人に判断させれば、あなたが正しいと言うだけであるから、是非の判断はできない。私と同じ意見の人に判断させれば、私が正しいと言うだけであるから、是非の判断はできない。また、私やあなたとは違う意見の人にも、正しい判断をすることはできない。私やあなたと同じ立場の者に判断させても、それは我々と同じ意見なのだから、ただ同意するだけだろう。だから、私もあなたも第三者も、真の正しさを判断することはできない。それなのに、第三者の判断をあてにできるだろうか。
化声の相待つは、其の相待たざるが若し、之を和するに、天睨を以てすし、之に因るに蔓延を以て、年を窮むる所以なり。何か之を和するに、天睨を以てすと謂う。曰く、是と不是と、然と不然と、是若し果たして是ならば、則ち是の不是と異なるや、亦た弁無し。然若し果たして然ならば、則ち然の不然に異なるや、亦弁無し。年を窮める所以なり。年を忘れ義を忘れて、無境に振るう。故に諸を無境に寓す。 |
様々な声(主張)が互いに依存し合っているように見えて、実は依存していないかのようである。それらを調和させるのは、自然の道理の超越的な視点によるのであり、それに従って広く行き渡り、限界に至ってしまうのだ。では、なぜ超越的な視点で調和させると言うのか。是(正しい)と不是(正しくない)、然(そうである)と不然(そうでない)がある。もし「是」が本当に正しいのであれば、それは「不是」とは異なるだろうか。もし「然」が本当にそうであるなら、「不然」とは異なるのか。結局、こうして区別を追い求めることで、思考は限界に達するのだ。だから、経験(年)を忘れ、是非(義)を忘れ、境界なく自由に振る舞う。区別のない世界に心を置いてみるのがよい。
斉物論篇 十二
罔両、影に問いて曰く、先に子行き、今は子止まる。先には子坐り、今は子起つ。何ぞ其れ特操無きやと。影の曰く、吾は待つ有りて然る者か。吾待つ所は又待つ有りて然る者か。吾は蛇鱗・蜩翼を待つか。悪んぞ然る所以を識らんと。 |
罔両(もうりょう)は影に尋ねた。「先ほどあなたが歩いていたのに、今は止まっている。早紀ほどは座っていたのに、今は立ち上がっている。どうしてそんなに一定しないのか?」
影が答えて言った。「私が自分でそうしていると思うのか。私が頼りにしているものにも、また頼りにしている何かがあるのだ。私が蛇のうろこや、蝉の翼を必要としているのか、どうして自分がそうしているのか分からない」
斉物論篇 十三
昔荘周、夢に胡蝶と為る。翔翔然として胡蝶なり。自ら喩しみて志に適う。周たるを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ち拠拠然として周なり。周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るかを知らず。周と胡蝶とは、則ち必ず分からん。此を之物化と謂う。 |
昔、荘周(荘子)は夢の中で蝶になった。ひらひらと舞う蝶となって、楽しげに自由に飛び回り、自分が荘周であることなどすっかり忘れていた。ふと目が覚めると、自分は確かに荘周であった。しかし、荘周の夢の中で胡蝶となったのか、胡蝶の夢の中で荘周となったのか分からない。荘周と胡蝶との間には必ず区別があるとされるが、このように荘周が胡蝶であり、胡蝶が荘周でもある区別のないことを「物化」というのである。

