坐禅和讃とは
坐禅和讃は、江戸中期の禅僧である白隠(白隠慧鶴、はくいん えかく)による著作で、坐禅の意義や効用について述べられています。それまで漢文が多かった禅宗の書物の内容が、一般の人にも分かり易い七五調の和讃の形式で書かれています。
白隠は駿河の国(今の静岡県)の出身で、多くの弟子を輩出し、臨済宗の中興の祖と呼ばれています。42歳の時にコオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成し、禅修行を行うと起こる禅病を治す治療法(内観の秘法)を考案しました。
坐禅和讃を読む
| 衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし |
私たちは本来は仏である、水と氷のようなもので、氷が溶けて水になるように、私たち以外に仏があるわけではない。
- 衆生本来仏なり
すべての存在はもともと仏性をそなえているという大乗仏教の根本思想。 - 水と氷の如く
形は違って見えても、本質は同じであるというたとえ。 - 水を離れて氷なく
氷が水から離れて存在しないように、仏も衆生から離れては成り立たない。 - 衆生の外に仏なし
仏は遠い別世界にあるのではなく、衆生そのものの内にあるという即身成仏の教え。
| 衆生近きを知らずして、遠く求むる儚さよ、譬えば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり |
自己が仏であることを知らず、それを遠くに求めるのはなんと愚かなことか。例えば水の中で、喉の渇きを訴えるようなものだ。
- 近きを知らずして、遠く求むる
本来そなわっている仏性に気づかず、外のどこかに悟りを探す迷い。 - 水の中に居て渇を叫ぶ
すでに救いのただ中にありながら、それに気づかない姿のたとえ。仏と衆生が本来一つであることを強調している。
| 長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず、六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり |
裕福な家に生まれながら、貧窮しているのに異ならない。六つの迷いの世界を輪廻する原因は、自分自身の愚かさゆえである。
- 長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず
本来は恵まれた境遇・仏性を持ちながら、それに気づかず迷っている様子のたとえ。 - 六趣輪廻の因縁
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道をめぐり続ける原因。 - 己が愚痴の闇路
迷いの根本は外にあるのではなく、自分の無明・愚かさにあるという教え。
| 闇路に闇路を踏そえて、いつか生死を離るべき、夫れ摩訶衍の禅定は、称歎するに余りあり |
愚かさに愚かさを重ねて、どうして迷いの世界から解放されるのか。大乗の坐禅(禅定)の徳は、誉めたたえ尽くせないほど尊いものである。
- 闇路に闇路を踏みそえて
迷いの上にさらに迷いを重ねること。無明を自覚せず、誤った行いを続ける姿。 - いつか生死を離るべき
そのようでは、輪廻の生死から解脱することはできない、という反語的表現。 - 摩訶衍(まかえん)
大乗仏教のこと。
| 布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、其品多き諸善行、皆この中に帰するなり |
布施や持戒などの六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)や、念仏、懺悔などの修行や、様々な善行も、全て坐禅(禅定)に行きつくのである。
- 布施・持戒の諸波羅蜜
六波羅蜜などの菩薩の実践。布施(与えること)、持戒(戒を守ること)など。 - 其品多き諸善行
種類の多い、あらゆる善い実践。 - 皆この中に帰する
それらはみな根本である大乗の禅定・悟りの道に収められ、そこへ帰一する、という意。
| 一座の功をなす人も、積し無量の罪滅ぶ、悪趣いづくに有ぬべき、浄土即ち遠からず |
一度の坐禅をしただけでも、過去に積み重ねた罪が消え去る。迷いの世界に落ちることはなく、浄土の世界も遠くはない。
- 一座の功をなす人
一たび坐禅・禅定の功徳を成就した人、あるいは一度でも真実の行に入った人。 - 悪趣いづくに有りぬべき
地獄・餓鬼・畜生などの迷いの世界に堕ちる道理がどこにあろうか、という反語。 - 浄土即ち遠からず
浄土ははるか彼方にあるのではなく、ただちにここに現れる、という教え。
| 辱くも此の法を、一たび耳にふるゝ時、讃嘆随喜する人は、福を得る事限りなし |
この有り難い仏の教えを、一度でも聞いた時に、それを誉めたたええ喜ぶ人は、限りない福徳を得るであろう。
- 此の法
ここで説かれている大乗・禅定の教え。 - 一たび耳にふるゝ時
たった一度でもその教えを聞くならば。 - 福を得る事限りなし
得られる功徳・福は無限である、計り知れない。
| 況や自ら回向して、直に自性を証すれば、自性即ち無性にて、既に戯論を離れたり |
ましてや自ら坐禅を行い、自己の本性を悟ることができれば、それは実体のない “空” であり、既に迷いから解放されている。
- 自ら回向して
得た功徳を他に向けるとともに、自己の悟りへと振り向けること。 - 直に自性を証す
じかに自己の本来の性(仏性・真実のあり方)を体得する。 - 自性即ち無性
本性は固定した実体ではなく、空・無自性であるという大乗の根本義。 - 既に戯論を離れたり
分別や言葉による無益な議論を超えている。
| 因果一如の門開け、無二無三の道直し、無相の相を相として、行くも帰るも余所ならず |
原因と結果は一つのものであり、二つや三つではなく唯一つの道である。全ては実体のない “空” であり、どこへ行こうと、全てが悟りの世界である。
- 因果一如の門
原因と結果が別々ではなく、本来一体であるという悟りの境地。 - 無二無三の道
二でも三でもない、絶対に一つの真実の道。対立・分別を超えた世界。 - 無相の相を相として
形や姿をもたない無相こそを、真実のあり方として見ること。 - 行くも帰るも余所ならず
どこへ行こうと帰ろうと、すべてが同じ真理のうちであり、外に別世界はない。
| 無念の念を念として、謡うも舞ふも法の声、三昧無碍の空広く、四智円明の月さえん |
全ての雑念を振り払えば、謡うことも舞うことも仏の教えに適う。精神を統一して執着をなくせば心は自由になり、四つの仏の智慧は満月のように輝いている。
- 無念の念を念として
分別や執着を離れた、作為のない真実の心をもって念とすること。 - 謡うも舞ふも法の声
日常のあらゆるはたらきが、そのまま仏法のあらわれであるという境地。 - 三昧無碍の空広く
禅定(三昧)が自在でさまたげなく、空の境地が広大であること。 - 四智円明の月
大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智という四智が、円満に輝くさまを月にたとえた表現。
| 此時何をか求むべき、寂滅現前するゆえに、当所即ち蓮華国、此の身即ち仏なり |
このとき他に何か求めるものがあるだろうか。悟りは今ここに実現しており、この場所が極楽浄土であり、この自分自身が仏である。
- 此時何をか求むべき
すでに究極の境地にあるのだから、外に求めるものは何もない、という反語。 - 寂滅現前
煩悩の静まった涅槃・寂滅の世界が、観念ではなく現実として目の前に現れていること。 - 当所即ち蓮華国
ここがそのまま蓮華の浄土であるという即身的な悟り。 - 此の身即ち仏
特別な変化を待たず、いまの身がそのまま仏であるという大乗の根本精神。



