概論
「大乗起信」とは、大乗への信仰を起こさせるという意味があります。著者は馬鳴(めみょう)と伝えられています。6世紀に真諦(しんたい)が漢訳しましたが、原本やその他への引用が見つかっていないため、中国撰述説もあります。
本書の目的について、以下のことが述べられています(因縁分)。
- 人々があらゆる苦悩から解放され、究極の安楽(涅槃)を得られるようにするため
- 如来の教えの根本義を解説し、人々が正しく理解して過たないようにするため
- 修行が未熟な者、修行が成熟した者、あるいは修行に耐えられない者などに分けて修行法を授けるため
構成
大乗起信論の構成は以下になります。
- 第一段:因縁分(本書述作の動機)
- 第二段:立義分(大乗という主題の中身と意義)
- 第三段:解釈分(詳細な解説)
第一章:顕示正義(正しい教えの提示)
・第一門:心真如(心の真実のあり方)
・第二門:心生滅(心の生滅のすがた)
第二章:対治邪執(誤った見解の克服)
第三章:分別発趣道相(実践に入る道程の解説) - 第四段:修行信心分(大乗への信仰とその修行)
- 第五段:勧修利益分(修行の勧めと修行の効用)
教義
立義分
立義分では、「大乗とは何か」について2つの観点から述べています。
- 「大乗」とは何を指すか?
- なぜ「大きな乗りもの」と呼ばれるか?
まず1つ目について、「大乗」とは衆生一人ひとりの心(衆生心)を指すと説きます。この心は、世俗的に価値のある世間法と世俗を超越した価値のある出世間法を含み、そのありのままの姿に「大乗」というもの自体が現れていると考えます。
次に2つ目について、「大きい」とは次のことを意味しています。
- 衆生心は平等に具わっており、減ることもなく、増えることもない
- 衆生心は如来を宿し、如来と同じ巧徳を本来無量に具えている
- 衆生心は世間的および世間超越的な全ての善の因となり果となる
心真如
心真如とは、心の真実のあり方という意味で、心は全ての事物の共通の根元であり、種々の教えの本体です。つまり、心の本性は不生不滅であることを指しています。
- 離言真如
- 依言真如
離言真如とは、全てのものは言葉で表現できず、心に思い浮かべることもできないとする考え方です。あらゆる言語表現は便宜的な仮の名にすぎず、その名前に対応する実体はないと説きます。そのため、そのことを真如(真実ありのまま)と呼びます。
依言真如とは、真如の言葉による説明です。「真実ありのまま」とは、全ての事物は妄想であり事実ではないという「ありのままに空」という意味と、心の真実のあり方自体は如来の徳相が本来具わっているという「ありのままに不空」という意味の2つがあります。
心生滅
衆生心は、普遍的で如来のあるべきあり方である心(如来蔵)の上に、個別的で現実に生滅をくり返す心(生滅心)があるという構造を持ちます。この両面は、ひとりの衆生の心である点で別異のものではなく、これらを阿頼耶識(あらやしき)と呼びます。
この阿頼耶識は一切のもの(法)を包摂(ほうせつ)し、一切の現象を現し出します。そのため、阿頼耶識(心生滅)には覚りと迷い(不覚)が含まれています。
覚り
覚りとは、心の本性(心の真実のあり方=心真如)が分別・思惟(しい)から離れていることを指します。それは全ての事物の根元であり、真実の姿と一体となった仏、法そのものとしての仏に他なりません。
迷い
迷いとは、心の真実のあり方が全ての衆生にとって同一であることを知らないため、衆生に様々な心の動き(雑念)が現れることを指します。迷いの三相は以下になります。
- 真実を知らないことに基づいて心が動くこと
- 心が動くと、主客の対立が現れ、主観が働くこと
- 主観が働くと、事実には存在しない客観が現れること

