火遠理命
海幸彦と山幸彦
故、火照命は海佐知毘古に為て而鰭廣物・鰭狹物を取る、火遠理命は山佐知毘古に為て而毛麤物・毛柔物を取る。爾に火遠理命は其の兄火照命に謂う。各佐知を相易へ用るを欲す。三度乞へ雖不許ず。然るに遂に纔に得、相易へき。爾火遠理命、海の佐知を以て魚を釣り一魚も不得。亦其の鉤海に失せき。於是其の兄火照命、其の鉤を乞ひ曰く、山佐知も己之が佐知、海佐知も己之が佐知と今各佐知を返さむと謂らし之時、其の弟火遠理命答へ曰く。汝鉤は魚を釣るに一魚も不得して、遂に海に失せり。然るに其の兄強ひ乞ひ徴り、故其の弟御佩之十拳の剣を破き、五百の鉤を作り、償へ雖も不取り。亦一千の鉤を作り、償へ雖も不受ず云ふ。猶其の正し本の鉤を欲得。 |
兄の火照命(ホデリノミコト)は海の幸の神(以下、ウミヒコ)となり、海の魚たち――鰭の広い魚・鰭の狭い魚を獲って生業としていました。弟の火遠理命(ホオリノミコト)は山の幸の神(以下、ヤマヒコ)となって、山の獣たち――毛が粗い獣・毛が柔らかい獣を狩って生業としていました。
ある時、ヤマヒコが兄に言いました。
「お互いに、生業を交換してみないか」
三度もお願いしたけれど、兄はなかなか承知しませんでしたが、ついにしぶしぶ交換が許されました。そこでヤマヒコは、海の幸である漁に挑戦しましたが、一匹の魚も釣れず、しかも兄の釣針を海に落として失ってしまいました。
その後、兄のウミヒコは釣針を返すように求めて言いました。
「山の獣も、海の魚も、それぞれ自分の生業がある。もう交換はやめて元に戻そう」
それに対し弟は答えました。
「兄の釣針は、一匹の魚も釣れず、しかも海に落としてしまいました」
それでも兄は頑なに、「どうしてもあの元の釣針を返せ」と強く要求してきました。
そこで弟のヤマヒコは、自分の佩いていた十拳剣を砕き、五百本の釣針を作って償いました。それでも兄は「いらない」と言いました。さらに、一千本の釣針を作って渡しましたが、それでも受け取りませんでした。
そして兄は言いました。
「いや、それではだめだ。どうしても、あの元の釣針がほしい」と。
海神の宮
於是其の弟、泣き患ひ海辺に居りし之時、塩椎神来、問ひ曰く、何ぞや虚空津日高之泣き患ふ所由。答へ言ふ、我と兄鉤を易へて而、其の鉤失せ、是に其の鉤乞はれし故、多き鉤を償へ雖、不受云はく、猶其の本の鉤も欲と。故之に泣き患ふ。爾塩椎神、云さく我汝命が為、善き議作さむ。即无間勝間の小船に載せ、其の船、以ち教へ曰く、我其の船押し流さば、差し暫し往き。将に味御路有らむ、乃ち其の道に乗り往けば、魚鱗の如造りし所の宮室、其綿津見神の宮は也。其の神の御門に到らば、傍之の井の上、湯津香木有らむ。故其の木の上坐さば、其の海神之の女、見え相議ら者ば也。 |
弟のヤマヒコが、海辺で泣きながら悩んでいたとき、塩椎神(しおつちのかみ)がやってきて、尋ねました。
「そなた、空津日高(アマツヒダカ)の命よ、どうしてそんなに泣いて悩んでおるのか」
ヤマヒコは答えました。
「兄と釣針を交換したのですが、その釣針を海に落としてしまいました。それで兄が返せというので、多くの釣針を作って償いましたが受け取ってくれず、『どうしても元の釣針を返せ』と言います。そのため、こうして悩み泣いているのです」
すると塩椎神はこう言いました。
「私が、あなたのために良い方法を考えて差し上げましょう」
そして、无間勝間(まなしかつま)という小さな船を作り、ウミヒコをその船に乗せ、そして次のように教えました。
「私がその船を流してやります。しばらく漂うと、味御路(うましみち)という立派な通りに出会うでしょう。その道を進むと、魚の鱗のように美しい宮殿が見えてくるはずです。それが綿津見神(海神)の宮殿です。
その神殿の門に着いたら、横の井戸の上に湯津香木(ゆつかつらの木)という木があります。その木の上に腰かけていなさい。そうすれば、海神の娘があなたを見つけて話しかけてくるでしょう」
故教に隨ひ少し行き、備其の言の如し即ち其の香木に登り以ち坐り、爾海神の女、豊玉毘賣の従婢、玉器を持ち将に水を酌まむの時、於井に光有り。仰ぎ見れば、麗し壮夫。有り甚異奇と、以為ひき爾火遠理命、其の婢を見水を得まく欲り乞ひ、婢の酌みし水を、玉器に入れ貢り進め。爾水を不飲、御頸の璵を解き口に含み、其の玉器に唾き入れ、於是其の璵器に著き、婢璵を離ち不得。故璵の著く任に以ち、豊玉毘賣命に進めき。 |
そこで、塩椎神の教えに従って少し行くと、言われた通りの光景が整っており、火遠理命は湯津香木(ゆつかつらの木)に登って腰を下ろしました。
すると、海神の娘・豊玉毘売(とよたまひめ、以下、トヨタマヒメ)の侍女が、玉の器を手に水を酌みに井戸へ来たとき、その井戸の中に光が射しているのを見ました。上を見上げると、美しい若者(ヤマヒコ)が座っていました。それを見て、侍女はとても不思議に思いました。そのときヤマヒコは、侍女に向かって「水が欲しい」と頼みました。侍女は水を汲み、玉の器に入れて差し出しました。
しかしヤマヒコは水を飲まず、首飾りの勾玉(まがたま)を外し、口に含んで、唾と一緒に器に吐き入れたのです。するとその勾玉は器にくっついてしまい、侍女はそれを器から取ることができませんでした。
仕方なく、勾玉がくっついたままの器を、トヨタマヒメに差し出したのでした。
爾其の璵を見、婢に問ひ曰く、若門の外に人有る哉、答へて曰く、人有り我が井の上の香木の上に坐り、甚麗し壮夫也、我が王に益して、而甚貴し、故其の人水を乞ひし、故水を奉れば水を不飲、此の璵を唾き入れ、是離ち不得、故任に入り、将来て而献らむ爾豊玉毘賣命、奇しと思ひ出見乃ち見感ひ目合はして、而其の父に白曰く、吾が門に麗しき人有り。爾海神自ら出見云はく、此の人は天津日高の御子虚空津日高矣、即ち於内に率入れ、而美智皮の疊八重に敷き、亦絁の疊八重に其の上に敷き、其の上に坐させまつり、而百取机代物を具へ、御饗為即ち、其の女豊玉毘賣婚令き。故三年に至り其の国に住まふ。 |
そこでトヨタマヒメは、その勾玉を見て、侍女に尋ねました。
「門の外に、誰か人がいるのですか」
侍女は答えて言いました。
「はい、井戸の上の香木の上に、たいへん麗しい壮年の男性がおられます。その姿は、私の王(=あなた)よりもいっそう美しく、まことに尊いお方です。その人に水を乞われましたので、水を差し上げたのですが、水を飲まずに、唾とともにこの勾玉を器に入れられました。そのため、この勾玉は器から離れず、仕方なくそのまま持って参りました」
これを聞いて、トヨタマヒメは不思議に思い、外に出て見に行きました。すると、彼の姿を見て心打たれ、目と目が合い、恋心を抱き、父に伝えました。
「門の外に、たいへん麗しい人がいます」と。
すると海神(綿津見神)は自ら出て見に行き、こう言いました。
「この人は、天津日高(あまつひだか)の御子、虚空津日高(そらつつひだか)である」
すぐに彼を内へ案内し、ミチの皮(美智皮)の畳を八重に敷き、その上に絁(あしぎぬ=上質な布)の畳を八重に敷き、その上に座らせて、百種の贈り物(百取機代)を用意し、盛大な饗応(みあえ)を行い、そして、娘のトヨタマヒメを娶わせました。
その結果、ヤマヒコは三年間、海神の国に住んだのでした。
海幸彦の服従
於是火遠理命、其の初の事を思ひ、而大き一つ歎きし、故豊玉毘賣命、其の歎き聞くを以ち、其の父に言ひ白さく、三年住め雖恒歎き無く、今夜大き一つ歎き為、若し何ぞ由有らむ。故其の父大神、其の聟夫に問ひ曰す、今旦我が女の語り云ふを聞かむ。三年坐ませど恒歎き無く、今夜大き歎き為。若し由有りや、亦此の間到り由や奈何に爾其の大神に備に、其の兄鉤失せを罸ち如の状語らむ。是以て海神悉海之の大小魚を召し集め曰し問わさく、若し此の鉤取り魚有りや、故諸魚の白す頃は、赤海鯽魚於て、喉と鯁び物を不得食愁ふと言ふ。故必ず是れ取らむ。於是赤海鯽魚之の喉探らば鉤有り。 |
ヤマヒコは、その昔の兄との釣針の問題を思い出して、大きくため息をつきました。それを聞いた妻のトヨタマヒメは、父である海神に次のように話しました。
「夫は三年間この国に住んでいましたが、これまで一度も歎いたことはありませんでした。けれども今夜は深く一歎をつきました。いったいどういうわけでしょうか」
すると海神は、娘婿(ヤマヒコ)に尋ねました。
「今朝、娘から『三年住んでいた間はずっと歎くことがなかったのに、今夜に限っては大きく歎いていた』と聞いた。
何か理由があるのか。また、あなたがここへ来た経緯も教えてくれないか」
そこでヤマヒコは、海神に向かって、兄(ウミヒコ)と釣針を交換したこと、そしてそれを海に失い、それが原因で苦しめられていることを、こと細かに語りました。すると海神は、海に棲む大小すべての魚を集めて、こう問いかけました。
「この釣針を飲み込んだ魚がいるなら答えよ」
すると諸々の魚が答えました。
「最近、赤海鯽魚(アカハヤ)が喉に何かを詰まらせて、何も食べられずに苦しんでおります。おそらく、それがその釣針を飲んだのでしょう」
すると、赤海鯽魚(アカハヤ)の喉を探ると、失われた釣針がありました。
即ち取り出て而清め洗ひ火遠理命に奉りし之時其の綿津見大神誨へ之曰さく此の鉤を以て其の兄に給はむ時言の状者此の鉤者淤煩鉤須須鉤貧鉤宇流鉤云らし而於後ろ手に賜へ 然而其の兄高田作ら者汝命下田営れ其の兄下田作ら者汝命高田営れ然為者吾掌水故三年之間必其の兄貧しみ窮む若其然為之事恨怨み而攻戦者塩盈珠出而溺り若其愁請は者塩乾珠出而活け此の如惚れ苦しま令と云し塩盈珠塩乾珠并せ両箇授けき |
それを取り出して、清らかに洗い清めてから、ヤマヒコ(山幸彦)に差し上げました。その時、海神はヤマヒコに教えて言いました。
「この釣針を兄(ウミヒコ)に返す時は、次のように言いなさい。
『この釣針は、淤煩鉤(煩わしい鉤)、須須鉤(進まぬ鉤)、貧鉤(貧しい鉤)、宇流鉤(流れ失せる鉤)である』と。
そして、その釣針は、手渡しではなく、必ず後手(しりで)に与えなさい」
さらにこう続けました。
「兄が上流に田を作るなら、あなたは下流に田を作りなさい。逆に、兄が下流に田を作るなら、あなたは上流に田を作りなさい。こうすれば、私は水を司る神なので、三年間は必ず兄が貧しくなるでしょう。
もし、兄がそのことを恨んで怒り、攻めかかってきたなら、潮盈珠(しおみつたま)を出して、海水を溢れさせて溺れさせなさい。そして、もし相手が苦しんで懇願してきたら、潮乾珠(しおひるたま)を出して、水を引かせて命を助けなさい。
このようにして、相手を完全に服従させるのです」
こう言って、海神は潮盈珠と潮乾珠のふたつの宝珠を授けました。
即ち悉和邇魚を召し集め問曰く今天津日高之御子虚空津日高将に上国に出幸為誰者幾日送り奉り而覆り奏さむ故各己が身之尋長の隨日を限りて而之白す中一尋の和邇白さく僕者一日送り即ち還り来む故爾其の一尋の和邇に告らす然者汝送り奉りて若し海中渡らむ時無惶畏り令め即ち其の和邇之頸載せ送り出故期の如一日之内送り奉り也其の和邇将返らむ之時所佩之紐小刀解き其の頸著け而返しき故其の一尋の和邇者於今謂ふ佐比持神也 |
そこで、海神は和邇魚(わにのうお)をすべて呼び集めて、こう尋ねました。
「今、天津日高の御子のヤマヒコは地上へ帰られようとしている。誰が、何日で送り届けて、また戻って来ることができるか」
するとそれぞれの魚たちは、自分の体の長さに応じて、送迎にかかる日数を申告しました。その中で、一尋(いっしん)の和邇がこう答えました。
「私は、一日で送り届けて、すぐに戻ることができます」
すると海神は、その一尋の和邇に命じて言いました。
「それならば、おまえが御子をお送りしなさい。海の途中を渡るとき、決して恐れたりしてはならぬぞ」
そう言って、ヤマヒコをその和邇の首に乗せて地上へ送り出しました。和邇は約束どおり、一日で山幸彦を送り届けました。
そして帰ろうとする時に、ヤマヒコは、自分の帯につけた小さな刀を取り外し、和邇の首にかけて贈りました。これにより、その一尋の和邇は佐比持神(さひもちのかみ)と呼ばれるようになりました。
是以備海神之教へ言如其の鉤与へき故自爾以後稍兪貧更荒き心起き迫め来き将攻む之時塩盈珠出し而溺ほれ令め其れ愁ひ請ひ者塩乾珠出し而救ひき如此惚れ令め苦し之時稽首き白さく僕者自今以後汝が命之昼夜守護人為り而仕へ奉らむ故今に至り其の溺ほりし時之種種之態不絶仕へ奉る也 |
このようにして、ヤマヒコは海神の教えの通りに兄のウミヒコへ釣り針を返しました。するとその後、兄は次第に貧しくなり、心が荒れて逆恨みし、弟に攻め寄せてきました。
その際、ヤマヒコは、海神から授かった潮盈珠(しおみつたま)を使って兄を溺れさせ、兄が苦しんで赦しを請うと、潮乾珠(しおひるたま)を使って救いました。このようにして、兄を苦しませて降伏させたとき、兄は平伏してこう誓いました。
「私はこれからは、あなた(ヤマヒコ)に昼も夜もお仕えする守護の者として忠誠を尽くします」と。
このため、今に至るまで、ウミヒコは、かつて海で溺れた時のあらゆる苦しみを忘れず、変わらず仕え続けているのです。
鵜葺草葺不合命
於是海神之女豊玉毘売命自り参り出之白す妾已妊身今産む時臨み此天神之御子海原不可生念ふ故参り出到也爾即ち於其海辺波限鵜羽以て葺草と為産殿造りて於是其の産殿未だ葺き合へず不忍御腹之急故産殿入り坐し爾将方産む之時其の日子に言ひ白さく凡佗国人者産むの時臨み本国之形以て産み生す故妾今本の身を以て産み為願はく妾見勿れ |
その後、海神の娘のトヨタマヒメ(豊玉毘売命)は自ら地上へと出て来て言いました。
「私はすでに子を身ごもっており、今まさに出産しようとしています。このような思いから、天神の御子を海の中で生むわけにはいきません。そのため、こうして地上に参りました」
そこで、海辺の波打ち際にて、鵜の羽を葺き草として産屋(うぶや)を建てようとしました。しかし、まだ屋根が葺き終わらぬうちに産気づいてしまい、急ぎその産屋に入って出産しました。
そのとき、トヨタマヒメはその夫であるヤマヒコにこう伝えました。
「一般に、異国の者は出産のとき、本来の姿に戻って子を産むのです。だから私も今、本来の姿に戻って出産します。どうか、その姿を見ないでください」
於是其の言奇しく思はして其の方産む竊み伺へ者八尋和邇化りて而匍匐ひ委蛇る即ち見し驚き畏みて而遁れ退き爾豊玉毘売命其の伺ひ見し之事を知り以て心恥と為し乃ち其の御子生み置きて而白さく妾恒海道通ひ往来を欲す然る吾が形伺ひ見し是甚く之怍き即ち海坂塞ぎて而返り入りき是以て其の産む所之御子名天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と謂ふ |
そのとき、ヤマヒコはトヨタマヒメの言葉を不思議に思い、ひそかに出産の様子をのぞこうとしました。そして、彼女が出産する姿を見ると、そこには八尋の和邇(大きな海獣)に変化した姿があり、体をくねらせていたのです。それを見たヤマヒコ火遠理命は、驚き恐れて逃げ出しました。
トヨタマヒメは、その様子を見られていたことに気づき、深く恥じて、子どもを生んで残し、こう言いました。
「私はこれからも、いつでも海の道を通って通いたいと思っていました。しかし、私の本来の姿をのぞき見されてしまったことは、たいへん恥ずかしいことです」
そう言って、海と陸との境を塞ぎ、海の国へ帰ってしまいました。
そのため、トヨタマヒメが残していった御子は、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこ なぎさたけ うがやふきあえずのみこと)と名づけられました。
然る後者其の伺ひき情恨め雖恋心不忍其の御子治め養ふ之縁因りて其の弟玉依毘売附け而之歌ひ献らむ 其の歌に曰く 阿加陀麻波 袁佐閇比迦禮杼 斯良多麻能 岐美何余曾比斯 多布斗久阿理祁理 |
その後は、あののぞき見したことを恨みに思いはしていたけれど、恋い慕う心をどうしても抑えきれず、せめて子どもを立派に育ててもらおうと、妹の玉依毘売(たまよりひめ)に託し、歌を贈りました。
赤玉(あかたま)は 押さえつけられても、白玉(しらたま=あなた)の装いは、やはり尊く美しい。
爾して其の比古遅 答歌に曰く 意岐都登理 加毛度久斯麻邇 和賀韋泥斯 伊毛波和須禮士 余能許登碁登邇 |
そのとき、ヤマヒコは返歌を詠んで言った。
沖つ鳥が羽を休める、鴨の棲む島に、
共にいたあなたのことを、私は決して忘れません――
この世のすべてのことの中で、ひときわ忘れ難いのです。
故日子穂穂手見命者高千穂宮に坐し、五百八十歳御陵者即ち其の高千穂山之西に在り也是に天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命其の姨玉依毘売命を娶はし生みし御子を名く五瀬命次に稲氷命次に御毛沼命次に若御毛沼命亦の名豊御毛沼命亦の名神倭伊波礼毘古命 故御毛沼命者波穂を跳ね于常世国に渡り坐し稲氷命者妣国為し而海原入り坐しき也 |
こうして、ヤマヒコは高千穂宮に住み五百八十年の間、国を治めた。その御陵は、高千穂山の西にある。
このヤマヒコは、そのおばにあたる玉依毘売命を妻とし御子を生んだ。
名は、五瀬命(いつせのみこと)、次いで稻氷命(いなひのみこと)、次いで御毛沼命(みけぬのみこと)、次いで若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、またの名を豐御毛沼命(とよみけぬのみこと)、または神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)、の四柱です。
御毛沼命は、波を跳び穂を渡って常世の国に行き、稻氷命は、母の国のために海原に入った。
神武天皇
東征
神倭伊波礼毘古命と其の伊呂兄五瀬命二柱、高千穂宮に坐して、而に議り云はく、何地に坐せばや、天下の政平聞看す、猶東へ行かむ思ほす。即ち日向より発ち筑紫幸行き、故豊国宇沙到りの時、其の土人名宇沙都比古と宇沙都比売、二人足一騰の宮を作りて、而大御饗献りき、其の地より遷移りたまひて、而於筑紫の岡田宮一年坐しき。亦其の国従上り幸して、而於阿岐国の多祁理宮七年坐しき。 |
神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト=後の神武天皇、以下、天神の御子)は、その兄の五瀬命(イツセノミコト)と二柱で、高千穂宮に座って相談して言った。
「どの地に居れば、天下の政治を安らかに聞き見することができるだろうか。やはり東に行こうと思う」
そこで日向を出発し、筑紫へと向かった。
豊国の宇沙に到着したとき、その土地の人である宇沙都比古(ウサツヒコ)と宇沙都比賣(ウサツヒメ)の二人が、足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を造って盛大な饗宴を奉った。
その地から移り、筑紫の岡田宮に一年間滞在した。さらにその国から都へ向かって進み、安芸国の多祁理宮(タケリノミヤ)に七年間滞在した。
亦其の国従遷り上り幸して、而於吉備の高嶋宮八年坐しき。故其の国従上り幸し、之の時亀の甲に乗り釣し乍、打ち羽挙げ来る人に速吸門遇ひ、爾して喚し帰し、之を問はさく汝者誰也答へ曰さく、僕者国神又問はさく汝は海道知る乎、答へ曰さく。能知又問はさく従ひ、而仕奉る乎、答へ曰さく。仕奉らむ故爾槁機指渡し、其の御船引き入れ、即(すなは)ち名賜る槁根津日子と号く。 |
またその国から移って都へお進みり、吉備の高嶋宮(タカシマノミヤ)に八年間滞在した。
この高嶋宮からさらに都へ進むとき、亀の甲に乗って釣りをしていた羽を打ったような姿の人に、速吸門(ハヤスイノト)で出会った。そこで呼び寄せて尋ねた。
「お前は誰だ」
答えて言うには、「私は国の神です」
「お前はこの海道を知っているか」
「よく知っております」
「では我に従って仕えるか」
「お仕えいたします」
そこで天神の御子は、その者を船に引き入れ、渡し守を務めさせ、名を槁根津日子(サオネツヒコ)と授けられた。
故其の国従上行し、之の時浪速之渡経て、而青雲之白肩津泊めき、此の時登美能那賀須泥毘古、軍興し待向へ以て戦ふ。爾御船入れし、之所楯取りて、而下ろし立たし。故其の地号け、楯津と謂ふ於、今は日下之蓼津と云ふ也。於是登美毘古と戦ふ之の時五瀬命於御手、登美毘古の痛き矢串を負おふ。故爾詔はく、吾は日神の御子為り。日に向ひて而戦ふは不良る故、賤き奴の痛手を負ひぬ。今自りは行き廻りて、而日を背負ひ、以て撃たむ期みて、而南方自廻り幸きしの時、血沼の海に到りき。其の御手の血を洗ひし。故血沼の海と謂ひけり也。其の地従廻り幸き、紀国の男之水門に到りて、而詔はく、賤き奴の手に負ひて乎死ぬると。男建びて而崩せり。故其の水門を号け、男水門と謂ふ也。陵即ち紀国の竈山に在り也。 |
こうして、その国(吉備)から都へ向かって進む途中、浪速の渡しを経て、青雲の白肩津(シラクヅ)に船を泊めた。
その時、登美の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が軍勢を起こして待ち構え、戦いを挑んできた。そこで御船に立ててあった楯を取り下ろして地に立てたため、その地を楯津(タテツ)と名づけた。今では日下(クサカ)の蓼津(タテツ)という。
この登美毘古との戦いのとき、五瀬命(イツセノミコト)が登美毘古の放った痛い矢を御手に受けられた。そこで五瀬命はこう言った。
「私はアマテラスの御子である。太陽に向かって戦うのはよくない。だから、このように賤しい者の矢で痛手を負ってしまった。これからは回り道をして、太陽を背に受けて攻めよう」
こう決めて、南へ回って進まれる途中、血沼海(大阪湾)に至り、そこでその御手の血を洗われた。これによってそこを血沼海と呼ぶようになった。
さらにそこから回って進み、紀国(和歌山県)の男の水門(オノノミナト)に至ったとき、五瀬命は「賤しい者の矢傷のために、私は死ぬであろう」とおっしゃり、そのまま壮健なまま亡くなられた。
それでその水門を男水門(オノノミナト)と名づけ、御陵は紀国の竈山(カマヤマ)にある。
故神倭伊波礼毘古命其地従り廻り熊野村に幸到之時大熊の髮出入り即ち失せき爾神倭伊波礼毘古命倐忽に遠延為御軍及皆遠延して而伏しき此時熊野之 高倉下 一横刀を齎ち於天神御子に到之地に伏して而献之時天神御子即ち寤め起ち詔はく長寝乎故其の横刀を受け取らせし之時其の熊野の山之荒ぶる神自ら皆切仆為爾其の惑ひ伏しし御軍悉く寤め起ちぬ |
こうして、天神の御子は、紀国から回って進み、熊野村に到着した。すると、大きな熊が現れて出入りし、すぐに姿を消した。その時、カムヤマトはたちまち意識が遠のき、味方の軍の者たちも皆、同じように意識が遠のいて倒れ伏してしまった。
この時、熊野の高倉下(たかくらじ)が一本の横刀(よこがたな)を携えて、天神の御子の倒れている場所へ持ってきて献上した。
すると、天神の御子はすぐに目を覚まされ、「よく眠ったものだな」と言い、その横刀を受け取ったところ、熊野の山にいた荒ぶる神たちが、皆ことごとく斬り倒された。
すると、それまで惑わされて倒れていた味方の軍の者たちも、全員が目を覚ました。
故之 故天神御子其の横刀を獲りし之所由を高倉下に問はし答へ曰さく己夢に云さく天照大神高木神二柱の神之命以ち建御雷神を召したまひて而詔はく葦原中国者伊多玖佐夜藝帝阿理那理 其の葦原中国者専汝が言向之所国故汝建御雷神が可降 |
そこで、天神の御子は、その横刀をどこから得たのかを尋ねた。高倉下(たかくらじ)は答えて言った。
「自分は夢を見ました。その夢の中で、アマテラスとタカギノカミ(高木神)の二柱の神が、タケミカヅチ(建御雷神)を迎えて言った。
『この地上の国は、いまだ平定されておらず、我が御子らも安らかにおられない。その国はまさしくお前が以前に向かった国である。それゆえ、お前(タケミカヅチ)が降りて行け』と」
爾答へ曰さく僕雖不降専其の国を平げし之横刀有り是の刀を可降 此の刀を降らしむ状者高倉下之倉頂を穿ち其自り墮とし入れむ故阿佐米余玖 汝取り持ち天神御子に献れ故夢の教へに如ひて而旦己が倉を見れ者信横刀有りし故是の横刀を以て而献る耳於是亦高木大神之命を以覚に白さく之天神御子此自り於奧の方莫使入幸そ荒ふる神甚多し今天自り八咫烏遣はす故其の八咫烏の引道に従ひ其の立たし後従り応え幸行せ |
「するとタケミカヅチはこう答えました。
『私が降らずとも、この国を平定するための横刀があり、それを降すことができます。この刀を降す方法は、倉の屋根を突き破って、そこから落とし入れます。だから、あなた(高倉下)はそれを取って、天神の御子に献上しなさい』
夢のとおり、翌朝、自分の倉を見ると、果たして本当に横刀がありました。そこで、この横刀を奉ったのです」
そこでまた、タカギノカミの命によって、天神の御子にこのようにお告げがあった。
「天神の御子よ、これより奥の方へは、決して直接お進みになってはなりません。そこには荒ぶる神々が非常に多くいます。今、天から八咫烏(やたがらす)を遣わします。その八咫烏が道案内をしますので、その後に従ってお進みなさい」
故其の教への覚の隨に其の八咫烏之後に従ひて幸行せ者吉野河之河尻に到りし時筌作り取魚す人有り爾天神御子問ふ汝者誰也答へ曰さく僕者国神名を贄持之子と謂ふ 其の地従幸行者生尾人井自り出来其の井に光有り爾汝誰也問はし答へ曰さく僕者国神名を井氷鹿と謂ふ 即ち其の山に入りて之に亦生尾人に遇ふ此の人巌を押し分け而出来爾汝誰也と問ひ答へ曰さく僕者国神名を石押分之子と謂ふ 今天神御 子幸行と聞こし故参向ひし 耳 其の地自り踏穿越宇陀に幸し故宇陀之穿とや曰す也 |
そこで、教えのとおりに八咫烏の後について進むと、吉野川の河口に着いたとき、竹で作った魚捕りの仕掛けを使って魚をとっている人に出会った。
天神の御子が「お前は誰か」と尋ねると、その人は答えた。
「私は国神で、名を贄持之子(にえもちのこ)といいます」
そこから進むと、尾の生えた人が井戸から現れた。その井戸は光り輝いていた。
天神の御子が「お前は誰か」と尋ねると、その人は答えた。
「私は国神で、名を井氷鹿(いひか)といいます」
さらにその山に入ると、また尾の生えた人に出会った。この人は、大きな岩を押し分けて出てきた。
天神の御子が「お前は誰か」と尋ねると、その人は答えた。
「私は国神で、名を石押分之子(いしおしわけのこ)といいます。今、天神の御子がこちらにおいでになると聞き、参上したのです」
そしてその地から山を踏み越えて宇陀に入ったので、その地を「宇陀の穿(うだのうがち)」という。
故爾於宇陀に兄宇迦斯 弟宇迦斯二人有り故先遣はし八咫烏二人に問ひて曰く今天神御子幸行しき汝等仕奉乎於是兄宇迦斯鳴鏑以て待ち其の使ひに射返し故其の鳴鏑所落つ之地訶夫羅前と謂ふ也将待ち撃たむと云ひ而軍聚めむ然るに軍不得聚れ者欺き陽りて仕奉り而大殿作り於其の殿内に押機作りて待ちく時に弟宇迦斯先に参向ひ拝み曰さく僕兄兄宇迦斯天神御子之使に射返し将待ち攻めむと為而軍聚め不得聚れ者殿作り其の内に押機張りて将待ちて取らむとす故参向ひて顕に白しき |
そこで、宇陀の地に兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)の二人がいた。
まず、八咫烏を遣わして二人に問わせた。
「今、天神の御子がお越しになる。お前たちはお仕えするか」
すると兄宇迦斯は、音の出る鏑矢を放って、その使者を追い返した。このとき、その鳴鏑の落ちた場所を訶夫羅(かぶら)の前という。
兄宇迦斯は「これから待ち伏せして攻めよう」として軍勢を集めようとしたが、うまく集まらなかった。そこで表向きは従うふりをして、大殿を作り、その殿の中に弓の矢を放つための仕掛けを設け、時が来るのを待った。
一方、弟宇迦斯は先に参上し、こう申し上げた。
「私の兄は天神の御子の使いを射返し、待ち伏せして攻撃しようと軍勢を集めましたが、うまく集まらなかったので、従うふりをして大殿を作り、その中に押機を張って、捕らえようと待っています。そこで、参上してこのことをお伝えに参りました」
爾大伴連等之祖道臣命久米直等之祖大久米命二人兄宇迦斯召びて 罵詈云はく伊賀 所作り仕へ奉らむに於大殿の内に者意礼 先に入りて其の将為仕奉之 状明く白せ而即ち横刀之手上握り由気 矢弟ひ刺し而追ひ入し之時乃ち己が所作りし押に見打て而死にき爾即ち控出で斬り散らしき故其の地を宇陀之血原と謂ふ也然而其の弟宇迦斯之大饗献れ者悉く其の御軍に賜り此の時歌たまひて曰く |
そこで、大伴連らの祖の道臣命(みちのおみのみこと)と、久米直らの祖の大久米命(おおくめのみこと)の二人は、兄宇迦斯を呼びつけ、罵って言った。
「お前が大殿の中で用意していたことは、すでに弟が先に来て、はっきりと暴露したぞ。その企みはもう明らかだ」
そして、横刀を握った手に矛を突き立てるように矢を射かけ、追い詰めて殿の中へ入ったとき、宇迦斯は自分で仕掛けていた弓矢の罠に当たって死んだ。そのあと、彼の亡骸を引きずり出して、首を斬り捨てた。このため、その地を宇陀の血原(ちはら)という。
そして、弟宇迦斯が献上したごちそうは、すべて天皇の軍勢に与えられた。このとき歌を詠んだ、
宇陀能多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 畳々 志夜胡志夜 此者伊能碁布曾 阿々 志夜胡志夜 此者嘲咲者也 故其の弟宇迦斯 |
宇陀の高地に仕掛けられた罠よ、
私が待ち構えるときに、茂って妨げるな。
立派な梓弓よ、その弓を挟む子供のように、
もしお前(敵)が妨げるなら、館のそばの
水に浮かぶ雲のようなものをすくって棄ててしまえ。
宇波なりのように、もしお前が妨げるなら、
市坂の大きな雲のようなものをすくって絶ち切ってしまえ。
「たたたみしやごしや」というのは、
これは矢を射るときの掛け声である。
「あああ音引しやごしや」というのは、
これはあざ笑うときの言葉である。
其の地自り幸行して忍坂の大室に到りましし之時生尾土雲 の八十建其の室に在りて待ち伊那流 故爾天神の御子之命以て八十建に饗賜る於是八十建に宛て八十膳夫設け人毎に刀佩け其の膳夫等に誨へ曰く之を歌ふを聞か者一時共斬れ故将其の土雲打たむを明かしし之歌に曰く |
その地を後にして進み行き、忍坂の大室に至ったとき、土雲の首領である八十建(やそたける)たちが建物の中で待ち構えていた。
そこで天神の御子は命じて、八十建たちに宴をもてなすことにした。すると八十建は、八十人の給仕役を配置し、それぞれに刀を腰に帯びさせ、そしてその給仕役たちにこう教えた。
「歌が聞こえたら、そのとき一斉に斬れ」
こうして、いよいよその土雲たちを討とうとする歌を歌った。
意佐加能 意富牟盧夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母 美都美都斯 久米能古賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 宇知弖斯夜麻牟 美都美都斯 久米能古良賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 伊麻宇多婆余良斯 此の歌の如くして而刀抜き一時に打ち殺しき也 |
勇ましい大室山の人たちよ、戦いの場に立ち並び、戦いの場に居並べ。
整然と、久米の子らよ、勇み立て。
勇み立って討て、討ち尽くせ。
討ち果たしたなら、皆で舞い遊ぼう。
みつみつし、久米の壮士らよ、勇み立て。
勇み立って討て、討ち尽くせ。
今こそ歌い踊ろうぞ。
こうしてこの歌を歌いながら、刀を抜き放ち、一斉に討ち殺した。
然る後将登美毘古撃たむ之時歌たまひて曰く 美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟 |
その後、登美毘古(とみびこ)を討とうとするとき、次のように歌った。
堂々と、久米の壮士らよ、一気に、敵を打ち払え。
それを攻め落とせ。
それを滅ぼし尽くして、討ち取ろう。
又歌たまひて曰く 美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 久知比比久 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟 |
また、次のように歌った。
堂々たる、久米の壮士たちよ、
垣根のように密に連なって 敵を囲み、押し詰めよ。
口々に戦いの声を上げ、我らは必ず討ち取ろう
又歌たまひて曰く 加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美能 伊波比母登富理 宇知弖志夜麻牟 |
また、次のように歌った。
神風の伊勢の海の沖に 波が寄せるように、
幾重にも重なって押し寄せよ。
白波のように、次々と押し寄せて、
我らは必ず討ち取ろう。
又兄師木撃ち弟師木之時御軍暫く疲れ爾歌たまひて曰く 多多那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多加閇婆 和禮波上加比賀登母 伊麻須氣爾許泥 |
また、兄師木(えしき)と弟師木(おとしのき)を攻めたとき、味方の軍勢がしばし疲れたので、こう歌った。
休みなく 稲の狭山のこの真中を斎き清めて守ってきたが、
戦いが続けば、我らはやはり疲れてしまう。
しまいには、上の丘にでも腰をかけて休みたいほどだ、
今は息が切れている。
故爾邇芸速日命参赴き於天神の御子に白さく天神の御子天降らし坐すと聞きし故追ひ参降り来即ち天津瑞献りて以て仕へ奉らむ也故邇芸速日命登美毘古之妹登美夜毘売娶せ子宇摩志麻遅命生まむ 故如此荒夫琉神等 言向け平和して不伏人等退け撥ひ而畝火之白檮原の宮に坐し天下治む也 |
そこで、邇藝速日命(にぎはやひのみこと)が参上し、天神の御子に申し上げた。
「天神の御子が天降られたと聞き、あとを追って参上しました」
そして、天から授かったしるしの宝を献上して仕えた。
その後、邇藝速日命は、登美毘古(とみびこ)の妹である登美夜毘売(とみやびめ)を妻にし、宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)を生んだ。
こうして、このように言い聞かせて荒ぶる神々をなだめ、また従わない人々を退け、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)において天下を治めた。
皇后選定
故日向に坐し時阿多之小椅の君の妹名阿比良比売娶し 生まれし子多芸志美美の命次に岐須美美の命二柱坐しき也然更に大后に為さむ之美人求め時に大久米の命曰す此の間媛女有り是神の御子と謂ふ其神の御子所以謂者三嶋湟咋之女勢夜陀多良比売と名き其容姿麗美故美和之大物主の神見感ひて而其美人大便為し之時丹塗矢と化り其大便為し之溝自流れ下り其美人之富登突きて 爾に其美人驚きて而立ち走り 伊須須岐伎 乃ち将来し其矢於床辺置からむとし忽麗き壮夫と成りぬ即ち其美人娶し生まれし子の名富登多多良伊須須岐比売命と謂ふ亦名づく比売多多良伊須気余理比売と謂ふ 故是以て神の御子と謂ふ也 |
神武天皇(天神の御子)が日向にいた時、阿多(あた)の小椅君(おはしきみ)の妹で、名を阿比良比売(あひらひめ)という女性を妻に迎え、多芸志美美命(たぎしみみのみこと)、次に岐須美美命(きすみみのみこと)の二柱の子が生まれた。
しかし、その後さらに大后(おおきさき)にふさわしい美しい女性を求められた時、大久米命(おおくめのみこと)がこう申し上げた。
「この近くに媛女(ひめみこ)がおられます。この方こそ天神の御子と呼ばれる方です。天神の御子と呼ばれる理由はこうです。
三嶋湟咋(みしまのみずくい)の娘で、名を勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)といい、その容姿は非常に美しかった。そこで、美和の大物主神(おおものぬしのかみ)がその美しさに心を動かされ、その女性が大便をしようとした時、赤く塗った矢に姿を変え、大便を流す溝に流れ下り、その女性の陰部を突いた。
その女性は驚いて立ち上がって逃げ出したが、その矢を持ち帰って寝床のそばに置いたところ、忽然として立派な男となった。その男はその女性を妻にし、生まれた子を富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすずきひめのみこと)、またの名を比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)といった。
このような経緯から、天神の御子と呼ばれているのです」
於是七媛女於高佐士野 遊び行き伊須気余理比売其の中に在り爾大久米命其の伊須気余理比売見而歌以於天皇に白さき曰く 夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟 |
こうして七人の媛女(ひめみこ)たちが、高佐士野(たかさじの)で遊んでおり、その中に伊須氣余理比売(いすけよりひめ)がいた。
そこで大久米命(おおくめのみこと)は、その伊須氣余理比売を見て、歌で神武天皇に申し上げた。
大和の高佐士野を行き来する七人の乙女たち、
いったい誰を妻にいたしましょうか
爾伊須気余理比売者其の媛女等之前立てり乃ち天皇其の媛女等見て而御心伊須気余理比売於最前立てるを知り歌以て答へ曰く 加都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟 |
すると伊須氣余理比売は、ほかの媛女たちの前に立った。そこで神武天皇は、その媛女たちをご覧になり、伊須氣余理比売が一番前に立っていることを知って歌で答えた。
とにもかくにも、
まず先立っている乙女を妻にしよう
爾大久米命天皇之命以て其の伊須気余理比売を詔しし之時其の大久米命黥くる利目を見而奇と思ひ歌曰 阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米 |
そこで大久米命が、神武天皇の命を受けて伊須氣余理比売に告げたとき、伊須氣余理比売は大久米命の入れ墨のある目を見て不思議に思い、こう歌った。
天のように広い所を、千鳥が飛ぶように歩いてきたのに、
なぜ目を裂いているのですか
爾大久米命答へ歌曰 袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米 |
そこで大久米命は、こう歌って答えた。
乙女に、まっすぐ会おうと思って、
私は目を裂いたのです
故其の嬢子白さく之仕へ奉らむ也 阿斯波良能於是其の伊須気余理比売命之家狭井の河 之上に在り天皇其の伊須気余理比売之許幸行一宿御寝坐しき也 後其の伊須気余理比売宮の内に参入りし之時 天皇御歌ひて曰く 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯 |
そこでその娘は、「お仕えいたします」と言った。
この伊須氣余理比売の家は、狭井川のほとりにあった。神武天皇は、その伊須氣余理比売のもとへ行き、一夜泊った。
のちに伊須氣余理比売が宮中へ参内したとき、神武天皇はこう歌った。
葦原の茂った川辺の家に、すがた畳を敷き重ねて、
私たちは二人で寝たのだったなあ
然而阿礼坐し之御子日子八井の命次神八井耳の命次神沼河耳の命名づく三柱 |
その阿礼におられた御子の名は、日子八井命(ひこやいのみこと)、次に神八井耳命(かむやいみみのみこと)、次に神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)、この三人であった。
当芸志美美命の反逆
故天皇崩後其の庶兄当芸志美美の命其の嫡后伊須気余理比売娶し之時将其の三弟殺さむ而謀りし之間其の御祖伊須気余理比売患へ苦みて而歌以其の御子等に知ら令むと歌て曰く 佐韋賀波用 久毛多知和多理 宇泥備夜麻 許能波佐夜藝奴 加是布加牟登須 |
神武天皇が崩御されたのち、その異母兄の当芸志美美命(たぎしみみのみこと)が、嫡后である伊須氣余理比売(いすきよりひめ)を娶ろうとしたとき、その三人の弟たちを殺そうと企んだ。その御母である伊須氣余理比売は心を痛め、歌によって御子たちにその危機を知らせた。その歌はこうである。
狭井川のあたりに雲が立ちわたって、畝傍山の木々がざわめいている。
これは風が吹こうとしている前触れだ
又歌て曰く 宇泥備夜麻 比流波久毛登韋 由布佐禮婆 加是布加牟登曾 許能波佐夜牙流 |
また歌って言った、
畝傍山に 昼は雲がかかり、夕方になれば
風が吹こうとして、木の葉がざわめくだろう
於是其の御子聞き知りて而驚きて乃ち当芸志美美殺さむと為将之時神沼河耳命其の兄神八井耳命に曰さく那泥 汝が命兵持ち入りて而当芸志美美殺さむ故兵持ち入り以て将殺さむ之時手足 和那那岐弖 不得殺故爾に其の弟神沼河耳命其の兄所持ちたり之兵乞ひ取り入りて当芸志美美殺しき故亦其の御名称へ建沼河耳の命と謂ふ |
そこで御子たちはそのことを聞き知って驚き、当芸志美美を殺そうとした。このとき神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)は兄の神八井耳命に言った。
「あなたが武器を持って入って、当芸志美美を殺してください」
そこで兄は武器を持って中に入り、殺そうとしたが、手足が震えてしまい、殺すことができなかった。そこで弟の神沼河耳命が、兄の持っていた武器を譲り受けて中に入り、当芸志美美を殺した。
このことから、彼は建沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと)とも呼ばれるようになった。
爾神八井耳命弟建沼河耳命に譲りて曰く吾者仇不能殺りて汝命既に仇得殺しき 故吾兄と雖上に為すこと不宜上是は汝命以て上に為し 神八井耳命者意富臣小子部連坂合部連火君大分君、阿蘇君筑紫三家連雀部臣 雀部造 小長谷造都祁直伊余国造科野国造道奧石城国造 常道仲国造 長狭国造伊勢船木直尾張丹羽臣嶋田臣等之祖也神沼河耳命者天下治めたまふ也凡 |
そこで神八井命は、弟の建沼河耳命に譲って言った。
「私は仇を殺すことができなかった。あなたはすでに仇を討った。
だから、私は兄であっても上に立つべきではない。
よって、あなたが上に立って天下を治めなさい。私はあなたを支える者として、忌人(いみびと)となってお仕えしよう」
このようにして、日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命の三人が天下を治めることになった。
凡此の神倭伊波礼毘古天皇の御年壹佰参拾漆歳御陵畝火山之北方白檮尾上在り也 |
この神武天皇(神倭伊波礼毘古天皇、かむやまといわれびこのすめらみこと)の御年は、百三十七歳であった。
御陵(みはか)は畝火山(うねびやま)の北方、白檮(かし)尾の上にある。
綏靖天皇~開化天皇
綏靖天皇
神沼河耳命葛城の高岡宮坐し天下治む也此の天皇師木の県主之祖 河俣毘売娶し生れまし御子師木津日子玉手見命天皇御年肆拾伍歳御陵衝田岡在り也 |
綏靖天皇(神沼河耳命、かむぬなかわみみのみこと)は、葛城(かつらぎ)の高岡宮(たかおかのみや)において天下を治めた。
この天皇は、師木県主(しきのあがたぬし)の祖である河俣毘売(かわまたびめ)を娶り、師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)という一人の御子をもうけられた。
綏靖天皇の御年は四十五歳であった。御陵は衝田岡(つくだのおか)にある。
安寧天皇
師木津日子玉手見命片塩浮穴の宮坐し天下治む也此の天皇河俣毘売之兄 県主波延之女阿久斗比売娶し生れまし御子常根津日子伊呂泥の命 次大倭日子鉏友の命次師木津日子の命此の天皇之御子等并せ三柱之中大倭日子鉏友の命者天下治む也 |
安寧天皇(師木津日子玉手見命、しきつひこたまてみのみこと)は、片塩(かたしお)の浮穴宮(うけあなのみや)において天下を治めた。
この天皇は、河俣毘売(かわまたびめ)の兄である県主(あがたぬし)波延(はえ)の娘・阿久斗比売(あくとひめ)を娶り、常根津日子伊呂泥命(とこねつひこいろねのみこと)、次に大倭日子鉏友命(おおやまとひこすきとも のみこと)、次に師木津日子命(しきつひこのみこと)という三人の御子をもうけた。
この三人の中で、大倭日子鉏友命が天下を治めた。
次師木津日子命之子二王坐し一子孫者伊賀の須知之稲置那婆理之稲置三野之稲置之祖 一子和知都美の命者淡道之御井の宮に坐し故此の王二女有り兄の名蝿伊呂泥亦名意富夜麻登久邇阿礼比売命弟の名蝿伊呂杼也天皇の御年肆拾玖歲御陵畝火山之美富登に在り也 |
また、安寧天皇の子は二人おり、そのうちの一人、和知都美命(わちつみのみこと)は淡道(あわじ)の御井宮(みいのみや)に居られた。
この王には二人の娘があり、姉の名は蠅伊呂泥(はえいろね)、またの名を意富夜麻登久邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめのみこと)といい、妹の名は蠅伊呂杼(はえいろど)であった。
安寧天皇の御年は四十九歳であった。御陵は畝火山(うねびやま)の美富登(みふと)にある。
懿徳天皇
大倭日子鉏友命軽之境岡宮に坐し天下治む也此天皇師木県主之祖賦登麻和訶比売命亦名飯日比売命娶し生れまし 御子御真津日子訶恵志泥命次多芸志比古命故御真津日子訶恵志泥命者天下治む也次当芸志比古命者 天皇御年肆拾伍歳御陵畝火山之真名子谷上に在り也 |
懿徳天皇(大倭日子鉏友命、おおやまとひこすきとものみこと)は、軽(かる)の境岡宮(さかいおかのみや)において天下を治めた。
この天皇は、師木県主(しきのあがたぬし)の祖・賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめのみこと、またの名を飯日比売命〈いひひめのみこと〉)を娶り、御子として御真津日子訶惠志泥命(みまつひこかえしねのみこと)、次に多藝志比古命(たぎしひこのみこと)をもうけた。
そして、この御真津日子訶惠志泥命が天下を治め、多藝志比古命はその弟である。
懿徳天皇の御年は四十五歳であった。御陵は畝火山(うねびやま)の真名子谷(まなごだに)の上にある。
孝昭天皇
御真津日子訶恵志泥の命葛城掖上宮に坐し天下治む也此の天皇尾張の連之祖奧津余曽之妹名余曽多本毘売の命娶し生れまし御子天押帯日子の命 次大倭帯日子國押人の命故弟帯日子國忍人の命者天下治む也兄天押帯日子の命者 天皇御年玖拾参歳御陵は掖上の博多の山上に在り也 |
孝昭天皇(御真津日子訶惠志泥命、みまつひこかえしねのみこと)は、葛城(かつらぎ)の掖上宮(わきがみのみや)において天下を治めた。
この天皇は、尾張連(おわりのむらじ)の祖の奥津余曾(おきつよそ)の妹で、名を余曾多本毘売命(よそたもとひめのみこと)という女性を娶り、御子として天押帯日子命(あめのおしたらしひこのみこと)、次に大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)をもうけた。
そして、この弟である帯日子国押人命が天下を治めた。兄は天押帯日子命である。
孝昭天皇は御年九十三歳で崩御された。御陵は掖上(わきがみ)の博多山(はかたやま)の上にある。
孝安天皇
大倭帯日子国押人の命葛城の室之秋津嶋の宮に坐し天下治む也此の天皇姪忍鹿比売の命娶せ生れまし御子大吉備諸進の命次大倭根子日子賦斗邇の 命 故大倭根子日子賦斗邇の命者天下治む也天皇御年壱佰弐拾参歳御陵玉手の岡上に在り也 |
孝安天皇(大倭帯日子国押人命、おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)は、葛城(かつらぎ)の室(むろ)の秋津嶋宮(あきつしまのみや)において天下を治めた。
この天皇は、姪の忍鹿比売命(おしかひめのみこと)を娶り、御子として大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと)、次に大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)をもうけた。
そして、大倭根子日子賦斗邇命が天下を治めた。
孝安天皇は御年百二十三歳で崩御された。御陵は玉手岡(たまでのおか)の上にある。
孝霊天皇
大倭根子日子賦斗邇の命黒田の廬戸宮に坐し天下治む也此の天皇十市の県主之祖大目之女名細比売の命娶し生れまし御子大倭根子日子国玖琉の命又 春日之千千速真若比売を娶はし生れまし御子千千速比売の命 又 意富夜麻登玖邇阿礼比売の命娶し生れまし御子夜麻登登母母曽毘売の命次日子刺肩別の命次 比古伊佐勢理毘古の命亦名大吉備津日子の命次倭飛羽矢若屋比売 |
孝霊天皇(大倭根子日子賦斗邇命、おおやまとねこひこふとにのみこと)は、黒田(くろだ)の廬戸宮(いおとのみや)において天下を治めた。
この天皇は、十市県主(とおちのあがたぬし)の祖の大目(おおめ)の娘、細比売命(ほそひめのみこと)を娶り、大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)をもうけた。
また、春日の千千速真若比売(ちちはやまわかひめ)を娶り、千千速比売命(ちちはやひめのみこと)をもうけた。
また、意富夜麻登玖邇阿禮比売命(おおやまとのくにあれひめのみこと)を娶り、夜麻登登母母曾比売命(やまととももそひめのみこと)、次に日子刺肩別命(ひこさすかたわけのみこと)、次に比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりびこのみこと、またの名を大吉備津日子命)、次に倭飛羽矢若屋比売(やまとひはやわかやひめ)をもうけた。
又其の阿礼比売の命之弟蠅伊呂杼娶し生れまし御子日子寤間の命次 若日子建吉備津日子の命 此の天皇之御子等并せ八柱 |
また、その阿禮比売命の妹の蠅伊呂杼(はえいろど)を娶り、日子寤間命(ひこいねまのみこと)、次に若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)をもうけた。
この天皇の御子は、合わせて八人である。
故大倭根子日子国玖琉の命者天下治む也 大吉備津日子の命与若建吉備津日子の命二柱相副け而於針間氷河之前忌瓮居え而に針間道の口と為以て言向け吉備の国和しき也故此大吉備津日子の命者 次若日子建吉備津日子はの命者は 次日子寤間の命者次日子刺肩別の命者 天皇御年壱佰陸歳にて御陵片岡馬坂上に在り也 |
ゆえに、大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)が天下を治めた。
大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)と若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)の二柱は共に、針間(はりま)の氷河(ひかわ)の前で、斎瓮(いわいべ)を据えて祭りを行い、針間を道口(みちのくち)として、言葉で吉備国を和らげ服属させた。
したがって、その順序としては、まず大吉備津日子命、次に若日子建吉備津日子命、次に日子寤間命(ひこいねまのみこと)、次に日子刺肩別命(ひこさすかたわけのみこと)である。
孝霊天皇の御年は百六歳であった。御陵は片岡の馬坂の上にある。
孝元天皇
大倭根子日子国玖琉命軽之堺原宮に坐し天下治む也此天皇穂積の臣等之祖内色許男命 妹 内色許売命娶し生れまし御子大毘古命次少名日子建猪心命次若倭根子日子大毘毘命又内色許男命之女伊迦賀色許売命娶し生れまし御子比古布都押之信命又河内青玉之女名波邇夜須毘売娶し生れまし御子建波邇夜須毘古命 此の天皇之御子等并せ五柱 故若倭根子日子大毘毘命者天下治む也其の兄大毘古命之子建沼河別命者次比古伊那許士別命 |
孝元天皇(大倭根子日子国玖琉命、おおやまとねこひこくにくるのみこと)は、軽(かる)の境原宮において天下を治められた。
この天皇は、穂積臣らの祖の内色許男命(うちしこおのみこと)の妹、内色許売命(うちしこめのみこと)を妃とし、大毘古命(おおひこのみこと)、次に少名日子建猪心命(すくなひこたけいこころのみこと)、次に若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)をお生みになった。
また、内色許男命の娘、伊賀迦色許売命(いがかしこめのみこと)を妃とし、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)をお生みになった。
さらに、河内国の青玉(あおたま)の娘、波邇夜須毘売(はにやすびめ)を妃とし、建波邇夜須毘古命(たけはにやすひこのみこと)をお生みになった。この天皇の御子は、あわせて五人である。
このうち、若倭根子日子大毘毘命が天下を治めた。その兄の大毘古命の子は、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)、次いで比古伊那許士別命(ひこいなこしわけのみこと)である。
比古布都押之信命尾張の連等之祖意富那毘之妹葛城之高千那毘売娶し生れまし子味師内宿祢 又木国造之祖宇豆比古之妹山下影日売娶し 生れまし子建内宿祢 |
比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)は、尾張連(おわりのむらじ)らの祖の意富那毘(おおなび)の妹である葛城の高千那毘売(たかちなびめ)を妃とし、味師内宿禰(うましうちのすくね)をお生みになった。
また、紀国造(きのくにのみやつこ)の祖の宇豆比古(うずひこ)の妹である山下影日売(やましたのかげひめ)を妃とし、建内宿禰(たけうちのすくね)をお生みになった。
此の建内宿祢之子并て九波多八代宿祢は次許勢小柄宿祢は次蘇賀石河宿祢は次平群都久宿祢は平群の臣佐和良の臣馬御樴の連等祖也、木角宿祢は次久米能摩伊刀比売、次怒能伊呂比売、次葛城長江曽都毘古は又若子宿祢此の天皇御年伍拾漆歳御陵剣池之中岡上に在り也 |
この建内宿禰(たけうちのすくね)の子は、あわせて九人である。
波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)、次に許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)、次に蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね)、次に平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)、次に木角宿禰(きつののすくね)、次に久米能摩伊刀比売(くめのまいとのひめ)、次に怒能伊呂比売(ぬのいろひめ)、次に葛城長江曾都毘古(かつらぎのながえのそつひこ)、そして若子宿禰(わくこのすくね)である。
孝元天皇の御年は五十七歳であった。御陵は剣池(つるぎのいけ)の中の岡の上にある。
開化天皇
若倭根子日子大毘毘命春日之伊邪河宮に坐し天下治む也 此の天皇旦波之大県主名由碁理之女竹野比売娶し御子比古由牟須美命 生れまし又庶母伊迦色許売命娶し生れまし御子御真木入日子印恵命 次御真津比売命又丸邇臣之祖日子国意祁都命之妹意祁都比売命娶し 生れまし御子日子坐王 又葛城之垂見宿祢之女鸇比売娶し生れまし御子建豊波豆羅和気 此の天皇之御子等并せ五柱 故御真木入日子印恵命は天下治む也其の兄比古由牟須美王之子大筒木垂根王 次讃岐垂根王 此の二王之女五柱坐す也 |
開化天皇(若倭根子日子大毘毘命、わかやまとねこひこおほびびのみこと)は、春日の伊邪河宮(いざかわのみや)におられて、天下をお治めになった。
この天皇は、丹波(たんば)の大県主(おおあがたぬし)、名由碁理(なゆごり)の娘の竹野比売(たけのひめ)を娶り、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)をお生みになった。
また、庶母(継母)の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)を娶り、御真木入日子印惠命(みまきいりひこいにゑのみこと)、次に御真津比売命(みまつひめのみこと)をお生みになった。
また、丸邇臣(わにのおみ)の祖の日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)の妹の意祁都比売命(おけつひめのみこと)を娶り、日子坐王(ひこいますのみこ)をお生みになった。
また、葛城の垂見宿禰(たるみのすくね)の娘の鸇比売(さしひめ)を娶り、建豊波豆羅和気(たけとよはづらわけ)をお生みになった。
この天皇の御子は、あわせて五人である。
このうち、御真木入日子印惠命が天下をお治めになった。
その兄の比古由牟須美王の子は、大筒木垂根王(おほつつきたるねのみこ)、次に讃岐垂根王(さぬきたるねのみこ)である。この二人の娘は、あわせて五柱いる。
次日子坐王山代之荏名津比売亦名苅幡戸弁娶し 生れまし子大俣王次小俣王次志夫美宿祢王 又春日の建国勝戸売之女名沙本之大闇見戸売娶し生れまし子沙本毘古王次袁邪本王次沙本毘売命亦名佐波遅比売 次室毘古王 |
次に、日子坐王(ひこいますのみこ)は、山代(やましろ)の荏名津比売(えなつひめ、またの名を苅幡戸辨〔かりはたとべ〕)を娶り、大俣王(おほまたのみこ)、次に小俣王(おまたのみこ)、次に志夫美宿禰王(しぶみのすくねのみこ)をお生みになった。
また、春日の建国勝戸売(たけくにかちとめ)の娘の沙本之大闇見戸売(さほのおほくらみとめ)を娶り、沙本毘古王(さほびこのみこ)、次に袁邪本王(おざほのみこ)、次に沙本毘売命(さほびめのみこと、またの名を佐波遅比売〔さはじひめ〕)、次に室毘古王(むろびこのみこ)をお生みになった。
又近淡海之御上祝以て伊都玖 天之御影神之女息長の水依比売娶し生れまし子丹波の比古多多須美知能宇斯王 次水之穂真若王次神大根王亦名八爪入日子王次水穂五百依比売次御井津比売 又其の母の弟袁祁都比売命娶し生れまし子山代之大筒木真若王次比古意須王次伊理泥王 凡日子坐王之子并せて十一王 |
また、近淡海(ちかつおうみ、近江)の御上祝(みかみのはふり)、以伊都玖天(いづくあめ)の御影神(みかげのかみ)の娘の息長水依比売(おきながのみずよりひめ)を娶り、丹波比古多多須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)、次に水之穂真若王(みづのほまわかのみこ)、次に神大根王(かむおほねのみこ)、またの名を八瓜入日子王(やつりいりひこのみこ)、次に水穂五百依比売(みづほいほよりひめ)、次に御井津比売(みゐつひめ)をお生みになった。
また、その母(息長水依比売)の弟の袁祁都比売命(おけつひめのみこと)を娶り、山代之大筒木真若王(やましろのおほつつきまわかのみこ)、次に比古意須王(ひこおすのみこ)、次に伊理泥王(いりねのみこ)をお生みになった。
このように、日子坐王の御子はあわせて十一人である。
故兄大俣王之子曙立王菟上王 此の曙立王は 菟上王は 次小俣王は 次志夫美宿祢王は 次沙本毘古王は 次袁邪本王は 次室毘古王は 其の美知能宇志王丹波之河上之摩須郎女娶し生れまし子比婆須比売命次真砥野比売命次弟比売命次朝廷別王 此の美知能宇斯王之弟水穂真若王者 次神大根王者 |
そこで、兄である大俣王の子は、曙立王(あけたつのみこ)、次に菟上王(うなかみのみこ)である。この曙立王、菟上王、さらに小俣王(おまたのみこ)、志夫美宿禰王(しぶみのすくねのみこ)、沙本毘古王(さほびこのみこ)、袁邪本王(おざほのみこ)、室毘古王(むろびこのみこ)らが続く。
その美知能宇志王(みちのうしのみこ)は、丹波(たには)の河上(かわかみ)の摩須郎女(ますのいらつめ)を娶り、比婆須比売命(ひばすひめのみこと)、次に真砥野比売命(まとぬひめのみこと)、次に弟比売命(おとひめのみこと)、次に朝廷別王(みかどわけのみこ)をもうけた。
この朝廷別王(みかどわけのみこ)は、美知能宇志王の弟である水穂真若王(みずほのまわかのみこ)の子である。また、その次に神大根王(かむおおねのみこ)がいる。
次山代之大筒木真若王の同母弟伊理泥王之女丹波能阿治佐波毘売娶し生れまし子迦邇米雷王 此の王丹波之遠津臣之女名高材比売娶し生れまし子息長宿祢王此の王葛城之高額比売娶し生れまし子息長帯比売命次虚空津比売命次息長日子王 |
次に、山代の大筒木真若王(やましろの おおつつきの まわかのみこ)は、同母弟である伊理泥王(いりねのみこ)の娘の丹波能阿治佐波毘売(たにはの あじさはひめ)を妻とし、迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)をもうけた。
この迦邇米雷王は、丹波の遠津臣(とおつのおみ)の娘の高材比売(たかきひめ)を妻とし、息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)をもうけた。
この息長宿禰王は、葛城の高額比売(たかぬかひめ)を妻とし、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、次に虚空津比売命(そらつひめのみこと)、次に息長日子王(おきながのひこのみこ)をもうけた。
又息長宿祢王河俣稲依毘売娶し生れまし子大多牟坂王 上謂し所建豊波豆羅和気王は 天皇御年陸拾参歳御陵伊邪河之坂上に在り也 |
また、息長宿禰王は河俣稲依毘売(かわまたの いなよりひめ)を妻とし、大多牟坂王(おおたむさかのみこ)をもうけた。ここで言う建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ)とは、以上の人物である。
開化天皇は、御年六十三歳で崩御された。御陵は伊邪河(いざかわ)の坂の上にある。

